第47話 異邦人

 嫉妬、羨望、憧憬、そんな生易しい言葉では言い表せないだろう。印波が天才であることに間違いはないが、「天才」と口に出して言う者はいなくなった。まるでそれまでの人生が全て由良島天元という一人の男のための序章だったかのように、あの「印波でさえ」という言葉で由良島に踏みつけられていった。

 印波は由良島に歯が立たなかった。完璧だと思った理論に反例を出され、その理論は由良島によって完成される。その度にあの「印波に……」という心無い言葉が胸に突き刺さるのだった。何度、由良島を恨んだことだろうか、いやもはやその感情は最初の数日で消し去っていた。圧倒的な天才を前に、その次元の違いに、ただただひれ伏すしかなく、そこに感情すらも生まれなかった。この者にだけは勝てない、そんな確固たる敗北感が論文を書くたびに、キーボードの音と共に押し寄せてきた。


 由良島は京都大学の講義ですら、その身に余っていた。ある意味、京都大学で過ごした一年間は由良島にとっては夏休みのようなものだったのだろう。由良島は十八歳ながら大学院への進学の話を持ち掛けられたが、すぐに断り、十九歳の年にアメリカへ留学することとなる。

 だがその一年間で日本とそして印波に与えた影響は強大で、印波はこの一年間の屈辱を百年以上たった今での克明に覚えている。


 そんな人知を超越した天才である由良島には悪癖があった。それが印波にはどうしても理解できなかったのだ。

 由良島は酒も煙草のギャンブルもやらなかった。そして頭がよく、顔も整っていた。そのため女にはモテた。だが由良島はその女を一人に絞ることなく、断るごとに一夜を共にしては捨てる。そんなだらしない性生活に明け暮れたのだ。


 その行動に疑問を持ちつつ時は流れ、大学の学園祭の日。いつもながら研究室に籠って実験をしようと考えていたが、この日ばかりは研究室も催しに使われた。印波は先輩から頼まれたシフトをこなすと、その休憩時間に、ふらりと講堂の屋上に立ち寄った。鱗雲かかかる秋晴れの屋上には涼しい風が吹きすさび、気持ちよかった。

 だがその日は先客がいた。


「うわさに聞いているぞ、君は実に女癖が悪いな」


 印波がそう言うと、由良島は振り返りながら答えた。


「噂を信じるんですね」


「事実だろ」


「……」


「その悪癖もお前の理想の為か」


「あれは科学者としての僕ではない、僕という一人の人間の認識を形作る行為です」


「女の胸の中でしか、自我を保てないなんて寂しい奴だ」


「そうかもしれませんね……」


以外にもあっさりと認めるため、印波は驚いた。


「愛情なんて嘘なんですよ。愛はただの大義名分だ。一人に絞れば、陶酔する。僕はそうなるのが怖いんだ。愛を知るのが怖いんですよ」


 由良島はそう言いながら遠くを見つめていた。まるであの饒舌に捲し立てる由良島ではなかった。人は二面性を持っていなければ壊れてしまう。科学者としては人知を超える由良島でもこの男も一人の人間だと思った。

 もしかしたら、由良島天元を人の道に引き戻す最後のチャンスは、この時だけだったのかもしれない。だが印波沈黙を守るしかできなかった。何と言えばいいのか分からなかったのだ。

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