第16話 理想

 生嶋は大きく頷き、両手を卓上で組んだ。


「これは極秘の情報だ。くれぐれも他言無用で頼むよ」


「そこは充分に分かっています」


 そもそもこの会談自体が外部に漏れればまずいことになるのは言うまでもない。それを分かった上、改めて注意されるということはよほどの頼みごとなのだろか。彦根の額には汗が滲んだ。


「先日起こった脱線事故の監視カメラ映像を知っているか」


 彦根は眉をひそめて一瞬の間を置いた。どこまで喋っていいのか。隠し通すべきか。総理大臣を前にして、まるで証人喚問のような緊張感が走った。


「ええ、知っています」


「あの不可解な事件には裏がある。あれは確実といっていい。作為的にほどこされたテロだ。君も見ただろう。何もないところから煙が立ちのぼる映像を」


「確かに自然現状とは考えにくい。総理を前にしてこのようなことを言うのは失礼であると承知の上で述べさせていただきます。あれは何者かがこのAR世界の打開を世に知ら閉めるテロではないかと考えています。つまり現在進めている法案への抗議の一種かと……」


「君の言う通りだ。あれは特別延命処置法案に対する抗議〝でも〟ある」


「でも……」


 意味深長に強調された接続語を反駁させた。


「私は今回のテロ事件はAR世界全体に対する宣戦布告のように思えるんだ。どのような技術を使ったかは分からない。だが一つ言えることはカメラには映らなかったということだ。つまりあの事件の犯人はARの外にいる存在だと考えている」


「つまりジェンダーということですね総理」


 宮部が口を挟んだ。


「そうとも言い切れんよ。ヒューマノイドでもこのレンズに映らない加工を施したのかもしれない。それでも確かなことはあの事件を未然に防げたのはジェンダーだけだったのかもしれないということだ」


 生嶋は少し間を置いてから続けた。


「私たちは機械仕掛けの水晶体によって一面からしか世界を見ることができない。ヘーゲルの弁証法のように、このお猪口の形を横から見れば、半月型だが、上から見れば円になる。だが我々はそれを同時に観測することはできないのだ」


 目の前にあったお猪口を手に取り、それを回転させながら熱弁した。


「特に私たちは決められた一面しか見ることできない、ある意味不自由な目を持ってしまった。私たちは、病にもかからないし、老いもしない。さらには死ぬ事すらもない……だがその代償として真実を失ったと言おうか。それでもなお人類はその失ったものに気が付かず、目先の便利さに怠けている」


「なぜそこまで分かっているのに今回の法案を進めようと考えたのですか」


 彦根は思わず聞いてしまった。


「人類復興のためだ」


 生嶋は確かな声でそう言った。


「スターリンや毛沢東が行った共産主義は平等ではない人間を平等の檻に閉じ込めたために失敗した。だがこの世界はまさしく資本論における史的唯物論の完成と言えるだろう。人は晴れて平等となり、エンゲルスとマルクスが掲げた社会主義の桃源郷は完成した」


 生嶋は目を見開いた。


「――だが、それは人の心までも機械化する行為なのだ」





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