第17話 理想
「彦根君、私の年齢を知っているかね」
「確か七十九歳で、今年で傘寿を迎えると」
彦根はそう答えながら、生嶋の張りのある肌を見つめた。ARによって加工された外見はその年月を感じさせない程、若々しい。七十九歳でありながら、まるで三十代後半に見える。しかし外見だけでは誤魔化せない、七十九年という月日を感じさせる貫禄があった。
「そうだ、私のこの体はあと数ヶ月で稼働を停止させる」
そう言いながら、自分の手を見つめた。その手を握り締め、拳を作ると、息が籠った言葉を発した。
「マスコミは私をその終わりが怖くなった臆病者と報道しているが、その実はもう生に対しての興味はない。そもそもこの法案が通ったとしても、私の延命には到底間に合わないだろう。私は死ぬ。私はこの法案を己が行きたいがために制定するのではない。未来のために制定させたいのだ」
生嶋は黙って聞いている彦根の瞳孔を凝視して、言った。
「この堕落した社会主義の世界を打破するには先導者必要なのだ。かつてのフランス王国をナポレオンが率いたように、中華を統一させた始皇帝がいたように、渾沌とした情勢に終止符を打ち、新たなる時代の幕開けを担うのはいつだって一人の英雄なのだ。何が本当かも分からず、ただ過ぎていく毎日に、人々が疑問も抱かずに堕落していくこの世界には、その平等を逸脱した先導者が必要なのだ。そのために私は特別延命処置法を推し進める。そしてこの日本を担う次世代にエースに繁栄へのバトンを渡すのだ」
彦根はその意見を一度、飲み込み咀嚼してから反駁した。
「だが一歩間違えれば独裁者です。特に社会主義や全体主義が前提にある世界では簡単に独裁者が生まれてしまう。終末を救うメシアなどそうそう現れるものではありません。そのような希望的観測で不死の階級を作れば、人類は愚かな自滅を繰り返すでしょう」
「そうだな、確かに私はホルスの目がついているわけではない。理想を抱えたまま、去ってしまうのはあまりにも無責任だ」
「外に放たれた理想はいつだって浮遊して悪用される。特別延命処置法もこのままではその道具になりかねないです」
「だから今日、私は君と会ったのだよ。彦根桐吾くん」
「どういうことですか」
生嶋は大きく息を吸った。姿勢を正し、真剣な眼差しで改まった。
「今日、私はその理想を君に託しにきた」
その言葉を聞いた瞬間、表情筋が硬直した。喉に息が詰まり、うまく言葉が出ない。
「彦根君、日本の先導者になってくれ。私は君以外にいないと思っている」
まさかこのような場所で日本の未来を託されるとは思ってもみなかった。脳内は混乱し、縛道は外に漏れ出るほど速くなっていたが、平生を装い、実に冷淡な口調で返答を送るのだった。
「総理は私に怪物になれとおっしゃるのですね」
「そうだ、いつの時代も民衆を先導するのは民衆から逸脱した怪物だ。君はそれだけの素質がある、カリスマ性がある。私は君を見てそう確信した」
生嶋は切迫したような表情でそう訴えかけた。まるで世界が明日でも終わってしまうようなその目は弱々しくも、自信に満ちていた。
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