霞みゆく
相田田相
第1話
宵に深く沈んだレストランの窓から見えるのは、おぼろげな山の輪郭とこじんまりとした道路に打ち付けられた水しぶきだけだった。
フライドポテトを無心で口に放り込んでは英単語帳をめくる。雨音と微かに聞こえる厨房の雑音、それと紙のめくる音にすらかき消されるモザイクのかかった遠い人の話し声。
その中で一つ。鼓膜を突き抜けるように入ってきた声があった。
「あれ?財布が・・・ない」
声はか細く、どんな雑音にも負けてしまうほどに弱々しい。しかし僕の耳の奥を的確に射貫く。それはまるで那須与一のように。
とはいえ僕に関係する話ではなかった。当初は気に留めることなく過ごしていたが、段々と空気にはずっしりとした質量が現れて、それと同時に興味が溢れはじめた。
その興味に集中が奪われ英単語帳をめくりはしても脳みそには何一つ残らない。仕方なく、のぞき込むように顔を出してみた。すると学校カバンに顔が入りそうになるまで近づけてゴソゴソと探しては「ない」と弱った声でつぶやいているのが薄っすらと見えた。
唯一しっかりと目に映ったのは、見覚えのある薄い藍色のブレザー。僕と同じ北高の制服だ。
同じ高校というのに更なる興味を持ち。もう少し近づいてみることにした。
レストランの店員は皺だらけの顔に更に眉間に皺を寄せ、あたふたする女子高生を上から見下す態度をとる。
女子高生はしばらくの間カバンとにらめっこしていたが、どれだけ中を探っても事実は変わらないのだと悟り「ど、どうしたらいいでしょうか」と尋ねた。
すると店員は「どうしたらって言われましても、払うものは払っていただかないと」そう吐き捨てるように言い放つ。
その言葉にはどうせ無銭飲食しにでも来たのだろうというニュアンスが感じられた。
しかしながら距離を置いて客観視してみれば女子高生がわざとやったわけでないことは簡単に理解できる。
「どうされたんですか」
そう訊きながら会話に入ることした。
「この方が財布がなくて払えないとのことで」
明らかな憤りが伝わってくる。この店をよく見渡すと今はワンオペで回しているらしい。ワンオペだと色々やることが多く、そこに面倒ごとが降りかかり、このような態度をとるのも確かに無理もないとは思った。
しかしこのまま店員と女子高生の重苦しい雰囲気を漂わされては、僕としても勉学に集中できず困りものである。
この場合の最善の案を思考しながら、間を持たせるために少し会話をしてみる。
「どこかに落としてしまったんですか?」
「多分そうだと思います」
「元から入れていなかった可能性は?」
「いえ、電車通なので財布を忘れることはないはずです」
「じゃあ今食事代を払えない上に帰れないということですか」
「そう・・です」
分かりやすく声のトーンが落ちた。
「財布がいつからないとかわかりますか?」
「学校を出たときにはあったのを確認しました。だから多分下校中のどこかで落としちゃったんだと思います」
「それなら探しに行きましょう、ここは一旦僕が払うので財布見つかったときに返してください」
「そんな・・いいんですか?」
「あとで返してもらうんですし、別に僕的には何も変わりませんよ」
「本当にありがとうございます」
意外と素直に厚意を受け止める。てっきり遠慮されると思っていた。そのときはじめて表情からは青白さが抜けて、暖かな笑みを浮かばせた。
店員は一安心という顔をしながら僕に「ありがとうございます」耳元でボソッとつぶやいて、厨房へと帰っていった。
霞みゆく 相田田相 @najiroku
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