第2話


「だ、大丈夫です、か……? 」

 「……誰ですか? 」

 「あ、えっと……」

 やや力尽きた弱々しい低い声で、こちらを疑うような声色だった。しまった、不審者と思われただろうか? ただ大丈夫かどうかを聞きたかっただけだったのに……


 「この声は……知っている方ですね……」

 「えっ? 」

 女性はゆっくりと顔を上げて、周りを見渡して、こちらを発見するや否や、少し安心したのか、緊張したような面持ちから柔らかい表情になり、長いため息をつきながら、ゆっくり立ち上がった。


 「はぁ……誰かと思ったら、まさかの花房はなふささんでしたか! あぁもう、びっくりしましたよ。いきなり声かけて来る人なんて、随分と久しぶりでしたから。てっきり不審者かと思いました」

 ブランコから勢いよく飛び降りていた変わり者は、沢山いたのにいろんな理由でうちを辞めて行く中、唯一残った同期であり、共に励まし合いながら頑張ってきた女性、室屋むろやさんだった。

 「あぁ、室屋さんだったんですね、お疲れ様です。すみません、いきなり声かけてしまって」

 「いいえ、私もすみません。……びっくりしたでしょ? 公園を通り過ぎる時に急に懐かしくなっちゃって、少し飛んでみたんですよ。もっと昔は遠くまで飛べてたのになぁって、ちょっと落ち込んでただけです。怪我はしてないので、気にしないでください」

 

 室屋さんは髪型が毎日変わる。髪を下ろしたままの日もあれば、今日みたいなポニーテール、編み込みにしている日もあれば、頭の上でお団子の日、三つ編みのおさげヘアの時もある。だから、彼女かどうかはすぐにはあまり分からない。しっかりと顔を見るか、黒のスラックスを履いてるかでしか、恥ずかしながら女性に疎いので、声色が変わると彼女かどうか判別がつかないのだ。

 

 ポニーテールを揺らした守屋さんは、今度は近くの滑り台に向かって歩き出し、滑り台についた途端、二段飛ばしで階段を登り、階段の一番上に着くと、登ってきた階段の方に向き直った。

 「私、昔から高いところから飛び降りるのが好きで、あぁやってブランコから飛び降りてみたり……こうやって、滑り台の階段の一番上から……えいっ! ……っと、こうやって飛んでみたり、はたから見たらヒヤッとするような、危ない遊びばかりやってたんです。そりゃあもちろん、親は角を生やしてめちゃくちゃ怒ってきましたよ。もっと貴方は女の子らしく遊びなさい! って」


 そうか、昔はおてんばだったんだな。守屋さんは、小さい時からやろうと思った事は一度やってみるような、チャレンジャーな子だったのかもしれない。

 「女の子らしいとか、男の子らしいとか、いつの時代だよって話ですよね。昔の価値観押しつてけないで欲しいですよ、ヒーローごっこが好きな女子もいれば、可愛い人形でおままごと遊びが好きな男子もいるんですから! 」

 彼女はまた、滑り台の階段を登り始めている。ヒーローごっこをしていた時の楽しさを思い出したのだろうか。


 「……まぁ、高いところはいろいろ見えてワクワクしますよね、落ちたりしたらちょっと怖いですけど」

 「怖いっていうか、クセになっちゃうんですよ、飛び降りた瞬間の無重力というか、解放感というか。……よっ! 」

 彼女は幼心を思い出したのか、何回か階段を登って飛び降りるのを繰り返していた。足に負担がかかりそうだし、一歩間違えば骨折しかねない行為だ、あまりしない方がいい遊びではある。あと、そもそもブランコも滑り台も、飛び降りて遊ぶような遊具ではないはずなのだが……。

 何回か滑り台から飛び降りていた守屋さんだったが、ふと私の方を見ると、ハッとしたように顔を硬らせて、恐る恐る話しかけてきた。

 

 「それはそうと……花房さん。貴方は、何故今日仕事に来てたんですか? 」

 「……はっ? 」

 私が何故仕事に来ていたか、だと? どういう事だ? まだ彼女には辞めたいと話していないはずだし、そこに勤めているから以外に何か答えはあるのか? 

 「……仕事をしにいったから、ですよね。はははっ、本っ当に花房さんは仕事熱心ですよねぇ! プロジェクトがなかなかうまく進んでいなかったのが気がかりだったんですか? 」

 「気がかりも何も……そもそもあれは、私が提案して受理されて、やっと立ち上がったプロジェクトだったんですよ? 私が行かないと何も」

 「その貴方がいなくなって[#「いなくなって」に傍点]、こっちは今大変なことになってるんですよ! 」

 いつも優しい口調の守屋さんが、珍しく声を荒らげた。少し手が小刻みに震えている。

 「……私がいなくなった? な、何を言ってるんですか? ここにちゃんといるじゃないですか! 」

 焦る私を見て、守屋さんは怒りを抑えるように、目を閉じてゆっくり息を吐いた。

 「……そうか、やっぱり花房さん、まだ気づいていらっしゃらなかったんですね……」

 さっきから彼女は何を言っているんだろうか。まるで私がこの世からいなくなったかのよう物言いじゃないか……。切なそうな表情を浮かべていた彼女は、すっと真顔になり、真っ直ぐこちらに歩いてきた。そして、大股一歩ほどの距離まで近づいて立ち止まり、諭すように口を開いた。

 「……貴方は、昨日の今頃、前方から向かってきた車に轢かれて、既にもう、亡くなっていらっしゃるはずです」


 「……そう、でしたっけ? 」

 彼女の嘆くような声を頼りに乏しい記憶を辿り、ハッと我に帰った。

 そうだった、昨日の今頃、今日と同じくらいの雲ひとつない夜空に、大きな満月が輝いていたのだ。あまりにも光り輝いて綺麗だったので、歩道橋を駆け上り、記念に写真を撮ろうと少し身を乗り出した。その際に、おそらく謝って歩道橋から落ちてしまい、猛スピードで走ってきたスポーツカーに跳ねられたんだと思う。だから起きたら服がボロボロだったんだな、何も疑問を持たずに着替えたので気がつかなかった。いつもの癖で、普通に会社に向かい、テキパキ仕事をして、電車に乗っていた。誰も幽霊が仕事をしていたのに気にしていなかった。なんて鈍感な会社だ。

 

 「花房さん、貴方の仕事は私が責任持って引き受けます。だから、《あちら》》でゆっくりしていてください。そんな姿になってまで、仕事しなくていいですから」

 という事は、守屋さんには私が見えていたのか? さぞかし幽霊が仕事なんかしてたら怖かっただろう、申し訳ない……。

 いまだに自分が死んだのに理解が追いついていなくて、後ろを振り向いてみた。守屋さんにはあるのに、私には黒く伸びた影がなかった。本当にこの世の者ではなくなってしまったのか、と少し寂しくなった。


 「……何で、守屋さんには私が見えるんですか? 」

 霊感が強い人間にはたまに見える事もあるようだが、彼女は強いのだろうか。彼女は頬を両手で包み、下を向いて呟き始めた。

 「なんとなく、誰かの気配を感じる時があるんです。それで、何だろう? と振り向いてみたら、うちの元社員だった人達が、透明なのに働いていたりするんです。……最初は気持ち悪くて、本当に怖くて、ネットで調べた除霊師を呼ぶべきかと思いましたけど、みんな血眼になって必死に働いてるんです。自分でも気味悪いんですが、もうなんか、慣れてしまいました。うちは幽霊も雇っているんだろうと思う事にしています」

 

 「何故、貴方にはが見えてるんですか? 」

 答えづらい質問を投げかけられ、彼女は目を閉じて、どのように伝えるべきか考えるように、右のこめかみを指先で触り始めた。投げかけた後に後悔しても時既に遅しで、見えることに悩んでいたとしたら、さらに彼女を苦しめてしまったのではないかとひどく後悔した。

 

 「分かりません……。私も、こんな世からいなくなりたいとはよく思います。何回かこうやって切ってみたり、花房さんみたいに高い場所に登ってみたりしたけど……私にはダメでした。遊具なら怖くないのに、建物とかからは勇気が出なくて……ようするに、死ぬのが怖いんですよ。……ははは、笑ってください、私には自ら命をたったあの人達を責める事はできません。だから、の所に行くまでは、しばらくかかるかもしれないです」


 彼女は声を震わせながら答え、何か書かれた白い紙をポッケから取り出し、ブツブツと何やら呟きながらゆっくりと立ち上がった。そして、紙を持ったまま真っ直ぐ右手を上に伸ばした後人差し指と中指に紙を挟み、それ以外の指を目いっぱいに広げた。確かに伸ばされた右手には、何かをひた隠すように、白い包帯が手首まで巻かれていて、見るからに痛々しい。彼女は手を伸ばしたまま、空を見上げながら話しを続けた。

 「……でも、こうやって生かされ続けられている間はなんとか頑張りますよ。たまには……さっきみたいに、羽目外しながら、ですけどね? 」


 彼女は話しながら上に上げていた手を少しずつ下ろして、私の胸あたりに高さを合わせた。そして持っていた白い紙を私に貼り付けるように、そっと押し当てた。

 その途端、体中がじんわりと熱くなった。手の感触がなくなっていく……ふと手を見ると、なんと、手が少しずつ切れ始めてしまっている……もしかして、彼女は……

 

「ありがとうございました、花房さん。あちらでゆっくりお休みください。彼らにも、よろしくお伝えください。……今まで大変、お疲れ様でございました」

 会釈した彼女の言葉を聞き終わるまでに、意識が少しずつ遠のき、私の体はみるみると色をなくして、やがて消えたあたりは光の粒となり、薄暗い公園を微かに照らす塵となって静かに消えてしまった。

 

 

「……花房さん済、と。後七人か。……はぁあ、まだまだあの会社は辞められそうにないなぁ、どんだけいるんだっての! 早く私も自由になりたいよぉ……。除霊師の娘なんてバレたら、誰も付き合ってくれないよなぁ怖くて。あぁあ、お腹すいた! 早く帰ろっ」

 

 最後の光が消える間近に、彼女の独り言が微かに聞こえたような気がした。

 

 

 目を開くと、私はどこか真っ暗な闇に立っていた。小川のように細やかな水が流れる音のみがそこら中に響いて、足首がひんやりと冷たい。前に少しずつ歩いていくと、少しか細い明かりが見えた。その明かりの近くに、黒い服を着た人物が立っていた。

 

 「あぁ、やっといらっしゃいましたね。お待ちしておりましたよ、来られるのが遅かったので、どうしたものかと心配しておりました」

 「す、すみません。私、死んだのに気づいてなくて、なんか仕事に行ってたみたいなんです。何やってんでしょうね、ははは……」


 ふふっと笑ってくれた黒一色の人物は、そっと右手を差し出して、指先を動かして手招いた。

 「さぁ、行きましょう。これから貴方の行く先をご案内致します」

 「私の、行き先? 」

 黒い人物は無言のまま頷いて、長い手をこちらに伸ばした。

 

 伸ばされたその手に触れた途端、私は、今までの事を何もかも忘れてしまった。


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