スライダー

里岡依蕗

第1話


 「こらっ! 危ないじゃないか! 」

 「チッ……」

 

 初老の男性が誰かに怒鳴った。声の方を見ようと後ろを振り向こうとすると、すぐ体の横を、舌打ちした音と共に、ハードロックのベースの重低音が駆け抜けた。

 「お兄さーん、お兄さん! 自転車は押し歩きでお願いしまーす」


 どうやら音漏れしていたイヤホンを付けた若い男性が、歩道を通る人々をポールを避けるように、ものすごいスピードで自転車を走らせて通り過ぎて行ったようだ。

 街中に立っていた指導員の声も、さっきの重低音では聴こえていないようで、せっかくの呼びかけも虚しく、ささっと無視でスルーして、何処かに行ってしまった。無視された指導員は、ため息をつきながら、慣れた手付きで折りたたんだバインダーを開き、挟まれた紙に何やらいそいそとボールペンでメモをし始めた。


 きっと器用な人なんだろうなぁ、よくイヤホンなんか付けて運転していられるものだ。周りの状況が分からなくなりそうで、見ているこちらが恐怖を感じてしまう。そもそもこの通りは、自転車押し歩き区間だから、自転車で走行すること自体がいけない事ではあるのだが。



 真夜中に公園にいるような人物は、時期的にはとても寒そうな格好をしたアツアツな若いカップルとか、仕事に疲れてカップ酒でやさぐれるサラリーマン、悪いと分かってたむろする若者たちくらいだろうと思っていた。

 実際に公園の横を通ってみると、周りを気にせずにいちゃつくカップルももちろんいたが、よく考えたら思いつくような人達も沢山いた。愛犬と散歩をする人、スポーティな格好で公園の周りをジョギングする人、喫煙所で正しく吸う人達もいれば、やはりベンチではないが、座れる場所を見つけて友人同士で集まり、たわいもない話をしながら、コンビニか何処かで買った缶チューハイを片手に、夜の夜空に靄をかけるように、白い煙を吐き出している若者もいた。中には、禁止行為として看板に書かれたスケートボードを楽しむ若者もいる。看板が見えないわけではないだろうに、何故そのような事をしているのか、と大人達は嘆くのだろう。

 

 「あの、よかったら、どうぞ……」

 「あらまぁ、ありがとうね」

 実際そのような若者ばかりではなく、今そこで行われたように、ご年配にバス停前のベンチの席を譲る女性もいれば、落とし物を拾って、前方の落とした持ち主に声かける優しい若者だっている。そんな優しい人達が霞んで、悪い方が目立ってしまう、そんな世の中なのだろう。

 

 いけないことをしてはいけません、そう言われると余計にしたくなる、禁制から興奮のような物を求めたくなる気持ちは、残念ながら大人になってもあまり変わらない人達もいるようだ。

 夜中に集まって禁止行為をする若者たちの心理は人それぞれだろうが、いけない事なのは分かっている方が多数だと思う。理性が抑えてくれているうちは、ある程度歯止めが効く。しかし、現代の荒れ狂った厳しい波から外れて、一旦一休みしたい、締め付けられた鎖から解き放ちたいという気持ちが湧き上がってくることもある。


 「……あれか。若気の至り、ってやつだよな」

 そういう気持ちが一ミリたりともあったことがない、とも言い切れないので、今日も見て見ぬふりをして、皆駅の構内に向かって行ってしまうのだ。

 

 

 「まもなく、一番線に、急行電車が到着致します。ご乗車の方は、黄色い線の内側に、二列に並び、整列乗車にご協力お願いいたします」

 

 暖かそうな暗めの色のコート、高そうな腕時計で時間を確認するスーツを着た会社員や華やかな紙袋を何個も提げたご婦人、周りの音を遮るように、イヤホンで何かを聴き、指をひたすらに動かしながらスマホに何かを書き込むリュックを背負った男性、塾帰りなのか、単語帳を見つめる制服の学生、電車が来るのを生き生きした顔で待ち侘びる少年と、その少年の小さな手を握る目が虚ろな母親と思われる女性、皆文句も言わずに、決められた通りに黄色く引かれた斜めのラインにずらっと二列に並んで電車を待っている。

 これはよく考えばすごいことではあるのだが、皆疑問に思わないというのは、日本人が真面目な人種だと言われる所以だと思う。正を乱すと、待っていたとばかりに四方八方から攻撃される。他の人と違う事をすれば、おかしな奴だと捲し立てられる。自我を出すのがなかなか難しい、それなのに自己アピールをするように言われる、批判されるのを恐れて、常識という殻の中から出るのを躊躇ってしまう世の中になってしまっている。

 ……そんな堅苦しい事はどうでもいい、ようするに、もっと自由に生きてもいいと思うわけだ。

 

 「あ、君。この前資料ありがとう。あぁ、そう言えば、来週お偉いさんが来るからよろしく。それと、この前の資料をコピーして配りたいから、君が用意して置いてね、何部かはメールで確認しておいてね。じゃあ、私は用事があるから先に帰るよ、よろしく頼むね! お疲れ! 」

 いきなりとんでもない重大告知と、自らやればすぐできるような用件を突然繰り出してくる、いまだに名前を覚えてくれない上司に振り回される毎日を繰り返せば、少しぐらいは羽目を外したくなる時もあったりする。

 しかし、そんな勇気も元気もない。年齢と思考が合っていないとよく言われるが、多忙な日々で、若さを何処かに忘れてきてしまったようだ。物忘れが酷かったり、次の言葉が出てこなかったり、よっこいしょ、とかあいたたた、とかとても若手とは思えないような思考や言葉を発してしまう事もある。

 忘れてしまったとしても、すぐ思い出すあたりはまだ脳が若いのかもしれないが、他人に笑い話として持ちかけると、深刻な顔で心配された。

 

 「花ちゃんってさ、何か、変わってるよね……」

 もう何百回も聴かされた言葉だ。こっちが変わっているんじゃない。貴方たちが、自我を出していないから変わっているように思えるだけだ。しかし、出た釘は撃たれるようなので、「ハハハ、そうですかねぇ」と笑って誤魔化すなりして、その場の空気を濁さずにあちらからの攻撃を回避するしか道はない。



 「まもなく、扉が閉まります、ご注意ください」

 

 古い常識に囚われたくない気持ちと、反感を買った後の安泰の崩壊が怖いので、何も動けずにいる。どちらかと言うと、まだ若い部類なので、多少は無理は効くはずだ。体に支障が出ない程度なら残業だってやってるし、ようやく内定を貰えた所なので、恩に報いて長く続けたいと思ってはいる。

 しかし、どうしても我慢して続けるには少々難しそうだ。業務の大変さに耐えられず同期は年々減り、気づけば、残ったのは自分と人気者と化した女性社員一人のみ。彼女は、同期とは思えないほど仕事ができ、うまく周りに溶け込んで、誰にでも変わらず同じように明るく接しているので、周りからも、上司からも一目置かれている、私とは正反対のキャリーウーマンだ。

 

 「まもなく、〇〇、〇〇です。お降りのお客様は、忘れ物がございませんよう、今一度お確かめください」

 

 電車出勤も慣れたものだ、最初はよろけてどうしようもなく、吊り革につかまったり、壁に背を付けていたが、今はつり革を持たずとも立てるようになった。慣れは恐ろしい。他の目新しい事に踏み出せなくなってくる。何を思おうが実行しない私は、ただの皮を被った偽善者でしかないのだ。

 スマホの通知を知らせるズームで、上着のポケットが震えた。どうやら、応援している野球チームが先制されてしまったらしい。アプリを開き、確認すると、甘く入ったスライダーをスタンドに持っていかれ、ソロホームランを浴びたらしい。やれやれ、今日も先に先制されている。

 

 「〇〇、〇〇です。ご乗車ありがとうございました」

 

 何駅か通り過ぎたのち、降りる駅に着いた。一斉に扉から出て階段を駆け降りていく降客と、降客が全員出るまで待ってから乗り込む乗客。構内を行き交う人々は、教え込まれた事を忠実にやってのける素晴らしさに感動することもなく、当たり前になった光景に違和感さえ感じていないようだ。小さい時から相手を思いやる事の大切さを説かれた成果だろう。たまに、意に反して前を行く人を追い越して行ったり、降りるより先に電車に乗り込む者もいるが、そういう自分を優先するような輩は、他より何か欠けてしまっているのだろう。

 

 改札を抜けて、表通りに出ると、道路では何処かを目指す車が忙しなく行き交って渋滞を起こしていた。歩道に目をやると、家路に真っ直ぐ着く者もいれば、明かりが灯って賑やかな声がする居酒屋に、少し焦げた焼き鳥の匂いに連れられて、戸を開けのれんをくぐる者もいる。窓からちらっと中を覗けば、顔を赤くして、焼き鳥串を幸せそうに頬張ったり、ジョッキ片手に目を細めて談笑しているスーツ姿の人々で大繁盛していた。


 「さて、どうしようかな」

 今にも掴めそうなほどに散りばめられた星と共に、燃えるように煌めく満月は、もう空の真上に高く上がっている。家路に着いても寝ること以外に特に何もすることもないし、大して空腹でもない。それに今日は約束事もしていないので、少し回り道でもして時間を潰してゆっくり帰る事にした。

 駅から歩いてすぐは、結構人通りが多い。そこから細い道に入って行けば、次第に走り去る自転車も、歩く人の数も減って行く。自動車だって疎らになり、ライトと近づくエンジン音や、自転車のベルにたまやなびっくりすることしかない。


 この地区は公園がありふれているらしく、家に着くまでにも横切る公園が何ヶ所かある。遊び場が北と南に二カ所あって、一つは、利用者が歩きやすいように通路がしっかり整備された運動公園のような大きい公園、もう一つは、砂場と遊具がいつくかあるだけの小規模の公園、あとは何処だったかな。

 この時間には車が数台通るくらいで、歩いているのは愛犬の散歩をしている人くらいだと思う。後は仕事帰りのサラリーマンがたまにすれ違うくらいだ。


 「はぁ……」

 大きい公園の方を横切った時、静寂を保つ空気がため息で揺らいだ音がした。このような時間に公園から人の声がするなんて、一体誰だろうか? 声の主には悪いが不審に思ってしまい、吐息の主のいる公園の遊具辺りに目をやった。


 公園から聞こえたのは、やはり人間の声だった。そんなに背は高くはない、真っ黒でまっすぐな髪を頭上に一つにまとめたポニーテールで、白いブラウスに黒いスーツ、スラックスを履いたOLらしき女性が、一人でブランコに座っていた。何があったのかは分からないが、彼女以外には誰もいないようで、隣のブランコは全く動いていない。

 彼女は左右の鎖を握り締めて、しばらく下を向いていた。そして、よし……! と気合いを入れ、黄色い座る部分にパンプスのまま立って、体を上手くくねらせながら、時折膝を曲げたり伸ばしながら、立ち漕ぎを始めた。小さな振り幅だったブランコは、やがて次第に大きく揺れ始めた。まるで縛られた重たい鎖から解き放された奴隷のように、無邪気な子供みたいな顔で、彼女はひたすらブランコを漕いでいた。

 

 「危ない、このままだとブランコが壊れてしまうぞ……」

 側から見ても危険を感じるほど、彼女が乗ったブランコは、今にも空に近づけそうなほどに高く揺れ上がっていた。メトロノームを逆にしたような振り幅で、高所恐怖症には耐えられなさそうな高さだ。一八〇度を越えたかと思うほど高く前に振り出た瞬間、彼女はブランコの銀色の鎖からパッと両手を離し、勢いよく前に飛び降りた。


 「あ、危ない! 」

 慌てふためいてもこちらはどうする事もできない、思わず叫び声を上げてしまった。ブランコから解き放たれた彼女は、ブランコの周りに埋め込まれている防護柵を飛び越え、恐怖な顔一つせず、空中を舞っている間に両手を前に出して、無事に両足で着地をしてその場にしゃがみ込んだ。慣れた手付きから、飛び降りたのは始めてではないのはなんとなく分かった。


 「……はぁ」

 しばらくの間、砂の上にしゃがみ込んで動こうとせず、その場にうずくまっていた。もしかして何処か怪我をしたのではないか? と心配になって、少し躊躇ったが彼女に少しずつ駆け寄りながら声をかけた。

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