特別編 コウ試合に出る 前編
ドクンッドクンッ
心臓の音が聞こえる。周りは騒がしい筈なのにやけに静かだ。客席から美咲や王子達の応援の声も聞こえる。
相手やレフェリーを見ると動きがとても緩慢でゆっくりに見える。これが試合前の感覚なのか?
何故俺がリングに上がってるかと言うと──
「お、俺が試合ですか!?」
「そう、田中君に是非出て貰いたくてね」
目の前には涼さんの試合で顔見知りになった高橋さんが座ってる。会長と涼さんも同席してるけどなんで俺が呼ばれたんだろうと不思議に思っていたら、いきなりの提案だ。
「え、えっと俺はまだ高校生ですよ?」
「あぁ、一応学生のみの大会だからね。アマチュアの大会だし」
な、なるほど?
「実はね、メインを張る予定の子が事故で骨折しちゃってね?今から相手出来そうな人を探すってのもあるんだけど、僕的には田中君の試合が見たいなぁと」
そう言いながら会長をチラチラ見てる高橋さん。まあ、最終決定は会長だしな。
「アマチュアの試合ですか…相手はどんな人なんですか?」
会長は高橋さんを見ながら考え込むように話す。
「えーっと……この子ですね」
高橋さんは一枚の資料を出してきた。
「少し失礼して…」
そう言うと会長はその資料を手に取る。俺はチラリと覗き込む。
“全日本アマチュアレスリングチャンピオン“
その文字が目に入る。え?ぜ、全日本チャンピオン?
「ふむ……これ相手になりますか?」
会長が俺を見てから高橋さんに問い掛ける。た、たしかに全日本チャンピオンが相手なんて俺は試合すらまともにしたこと無いのに…。
「あー……僕は大丈夫だと思ってるんですけどね」
苦笑いを浮かべながら頭をポリポリ掻いて自信無さげな高橋さん。
「コウ、お前はどうなんだ?」
会長が俺に聞いてくる。
「えっと、相手は全日本チャンピオンなんですよね?俺は試合の経験も無いし大丈夫かな?って思うんですよ。──でも試合はやってみたいです」
相手が全日本チャンピオンでも、やってみたい事には変わり無い。自分が今どれだけやれるのか。
勿論勝てはしないだろうけど、ここまで練習も頑張ったんだし、少しは通用すると思いたい。
会長の練習や今までやって来たことが無駄じゃなかったって思いたい。
「?そうか……うーんどうするか…」
俺の言葉を聞いて考え込む会長。そうだよな…まだ試合は早いって言ってたのに、いきなり全日本チャンピオンだもんな。
その時涼さんから援護が入る。
「まーやらせてみたら良いんじゃないですか?何事も経験っていっつも言ってるでしょ会長も」
涼さんの言葉に怪訝そうに
「そりゃそうだか……これ経験になんのか?」
うーん…確かに試合がすぐ終わって経験なんて何も得られないってこともあるし。
「試合は……まあ良いとして、リングに立った時の雰囲気とか、試合前の選手の気持ちとか、色々わかるでしょ」
涼さんは俺に試合の雰囲気を経験させたいらしい。試合はまあ良いとしてはちょっと傷付くけど。
「ふん……確かにな、それはそうかもしれん。でもそれだけなら──」
それだけなら別に今じゃ無くてもって事だろう。
「いやいや会長。一番大事な事を忘れてますよ。こいつには今、可愛い可愛い彼女の美咲ちゃんがいるでしょ?」
涼さんが珍しく真面目に話してると思ったらやっぱり!こう言う方向に話を持っていく!!
……まあ確かに美咲に良いところを見せたいってのも試合をやりたい動機の中にあったけどさ。
「コウも高校生ですよ?彼女が出来てその彼女に格好良いところ見せたいって思うのは当たり前でしょ?俺なら絶対試合やって彼女に惚れ直させます!」
この人は……人の事なんて考えずズケズケ言っちゃって!!ほとんど当たってるじゃないですか!!
「はあ……お前なあ?コウはお前と違ってそんな事で試合したいなんて──」
そう言いながら会長が俺の方を向く。俺は顔を赤くしながら下を向く。気まずい。
「……そうか、コウも高校生だしな。もうそんな年頃か」
何だか会長は、遠くを見て感傷に浸っている様だった。恥ずかしいから止めてください。
そんな事を思ってると会長は高橋さんの方を向いて
「高橋さん今回のお話受けさせて頂きます、コウもそれで良いな?」
「はい!よろしくお願いします!」
俺は会長の言葉に一も二もなく頷いて頭を下げる。やった!初めての試合だ!
「本当ですか!!実は結構な確率で断られると思ってたんですよ!何せ田中くんは犬飼会長の秘蔵ッ子だって噂ですし、実際そうみたいですしね!」
高橋さんは余程嬉しいのか早口で捲し立てる。しかし俺が会長の秘蔵ッ子ってのは流石に持ち上げすぎだよ、高橋さん。
「いやーしかし田中くん……いや!コウくんの初めての試合を組めるなんて嬉しいなあ!これからもよろしくね?コウくん!」
いきなり距離を詰めてきた高橋さんに若干引きながら返事を返す。
「それじゃあ僕はこれで!色々と準備があるので!会長!後程連絡しますね!」
そして高橋さんは嵐のように去っていった。騒がしい人だ。忙しいのは本当だろうけど。
「会長!俺頑張ります!」
高橋さんが帰ったら急に試合をするって事が実感出来てテンションが上がる。
「ん?おお、程々にな。初めての試合なんて大体全員あっという間に終わってるもんだからな」
会長がしみじみ語ってる横で涼さんもうんうんと頷いてる。
「涼さんも初めての試合はあっという間でした?」
「ん?ああ、俺の場合は天才だから最初の試合も本当にあっという間に終わったからなぁ」
ぐぬぬ…天才なのは真実だけどなんかむかつく。
「まあ、しゃくだが鎌田は最初からセンスはあったからな。しゃくだが」
会長は面倒臭い物を見るように涼さんを見ながらずっとしゃくだがって言ってる。本当にしゃくなんだろう。
「じゃあ試合に向けて色々調整するか」
そうして、三人で練習に向かう。
「ええーーー!コウ試合すんの!?凄いじゃん!!」
教室の中に美咲の声が響く。あの、ちょっと声のボリュームをですね…。
「こ、声がでかい」
「ご、ごめん…」
美咲の声でクラスメイト達の視線を一人占めだ。
「でも!凄いじゃん!犬飼会長が良く許してくれたね!?」
美咲が興奮しながら嬉しそうに手を握ってくる。
「あ、ああ俺も試合してみたいって言ったら会長がやってみろってさ」
本当は彼女に良いところ見せたいってくだりもあるけど、そこは黙っておこう恥ずかしいし。
「おー!良いね良いね!相手はどんな人なのか、わかってるの?」
良い質問ですね美咲さん。
「それが……学生のアマチュアレスリングの全日本チャンピオンらしい」
「………え?コウって初めての試合だよね?それでいきなりチャンピオン?」
美咲もかなり驚いてる様子だ。
「そうなんだけど、涼さんも一緒に居てさ試合内容より試合前の雰囲気とかリングに上がった時の感じとかを体験させるのは早い方が良いって言ってくれて」
本当はその後美咲に良いところ見せたいんだろうって煽られたけど。
「へー!流石涼様!良いこと言う!」
「今回は涼さんに助けられたな」
そんな話しをしてると
「お?どうした?二人で盛り上がって」
タクと委員長も寄ってくる。ちなみに春川は美咲のパンを買いに行ってます。今でもたまにこれをやって欲しいと懇願かれるらしい。ぶれねぇな。
「ああ、二人にも伝えようと思ってたんだが──」
二人にも事の詳細を伝える。王子は他の女子に囲まれてて寄ってこないが俺が試合に出ることは知ってる。
まあ同じジムだし俺から直接美咲に伝えるからって言って黙って貰ってた。
そしてここから地獄の練習の日々が……
始まらなかった。
「あの、会長…その不満とか文句では無いんですけど…と、特訓とか色々やらなくて良いんですか?」
だって相手は日本チャンピオンだよ!
「あ?……まあ今回はあんまり時間もねーし無理する必要も無いからな。なんだ?練習がキツくなくて文句言われたのは初めてだな」
そんな事をを言いながらガッハッハと笑う会長。確かに急に決まった試合だけど、もうちょっとこう……。
そんなこんなで日々は過ぎていきあっという間に試合当日に──
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