求められ、応じた
「あなた」
呼ばれた俺は、それが彼女であることに気が付いた。
「右手の傷は、治ったようね。変わらないようで嬉しいわ」
「そうか」
「本当に、何も変わってないのね」
彼女は右手を触り、俺はそれを見ていた。
「あなた何か感じる?」
「触られてる」
「そうね」
彼女との間に、会話が成立しなかった。まだ、彼女は俺に与えなかったから。俺は受け取らなかったから。
「また話しましょ。機会があれば」
彼女は俺から離れた。
直ぐに彼女の周りには、男と女が集まった。彼女の表情は変わらず、でも彼女は言葉を与えていた。
昼になり、昼食を食べる時間だった。だが、俺は動かなかった。中学までは給食があった。その時間に食べることを求められた。でも高校では昼休みがあるだけ。食べることを具体的に求められなかった。
椅子に座っていた。誰から話しかけられることもなく。座っていた。彼女は、昼休みになってすぐに教室を出て行った。もちろん男も女も、彼女を追って教室から居なくなった。全ての生徒が教室から居なくなったわけではないが、半分は居なくなっていた。
昼休みが終わるころに彼女は教室に戻って来た。後ろに男と女を連れて。教室に入ってくる彼女と目が合った気がした。
午後の授業も終わって、家に戻る。そう求められているから。
家に戻る道を歩いていた。変わらない道を。変化があったのは、俺ではなく彼女だった。
「あなた」
後ろに彼女がいた。
「なんだ」
呼ばれたので反応した。
「昼休み何をしていたの?」
「休んでいた」
「昼食、食べなかったの」
「昼休みだ」
「昼休みには昼食を食べるのよ。食べてから休むの」
「そうなのか」
「そうなのよ」
俺が知らないことを、彼女が教えてくれた。高校の昼休みには昼食を食べる。だが、食事がなかった。家では扉の前に置いてある。中学は教室に食べるの物が運ばれてきた。高校でhどうすればいいか分からなかった。だから俺は彼女に聞いた。
「何を食べればいい」
「言わないと、あなた理解できなかったわね。学食があるから、そこで食べるのよ。後は弁当を持参するとか」
「学食、弁当」
俺の腹が鳴った。『グー』と。
「あなた昼食食べてなかったのよね。昼休み休んでいたから。お腹空いているの?」
「俺はお腹が空いているのか」
「あなた空腹も感じないの」
「感じない。空腹ってなんだ」
「あなたは」
彼女が言葉を切った。ただ俺を見つめている。俺も同じように彼女を見つめた。
「付いてきなさい、食事を用意してあげる」
「わかった」
彼女についてくることを望まれた。俺はそれに従った。
彼女の家に行ったのは、2回目だった。前回と同じように、椅子に座らされた。彼女は料理をして、それを俺に与えた。
「食べなさい。あなたは空腹なんだから。あなたが空腹だと認識していなくても」
「わかった」
彼女の作った料理を、食べた。初めて食べた彼女の料理の味は覚えていない。
「美味しいかしら」
「わからない」
「あなたって。前に家に来た時も、わからないと言っていたわね」
「知らない。だからわからない。美味しいって何だ」
「食事をした時、美味しいと感じないの。痛みを感じなくても、味覚は機能してるはずよ」
「これは美味しいのか」
「あなたには、美味しいの規準がないのね」
彼女は料理を食べた。
「自分の作った料理だけど、美味しいわ」
「これが美味しい」
食事は食事だった。食べるものだった。彼女が教えてくれた美味しいを感じたことは無かった。味を知ったのも、彼女が教えてくれたからだ。この日俺は、味と美味しいを知った。
家に帰って食べた夕食も、昼休みに食べるようになった学食も。美味しくなかった。彼女の作る料理の方が美味しかった。
夜の道を歩く。中学から続く歩く行為は。高校に入っても続けていた。今に思えば、寝れなかったから歩いていたのだと思う。歩いて家に戻ると寝ることができた。だから歩いていた気がする。
その日は雨が降っていた。6月だった。傘を持って歩く、公園の中を歩く。変わらない道、同じ行動。そして変化は、彼女が与えてくれる。
「ねぇ、あなた」
公園に彼女がいた。彼女も傘を持っている。
「公園で待っていれば、あなたに会える気がしたの」
「そうか」
「私の家に来ない?」
「お前が来いというなら、わかった」
「それじゃあ行きましょう」
雨が降る中、彼女と俺は歩く。公園から彼女に家に行く道。通ったことのある道。
彼女に家について、玄関から家に入る。彼女に家に来るのは3度目だ。3度目は、1度目と2度目とは違った。違ったのは、玄関で止まったこと。手に持った傘が床に落ちて、彼女は振り向いた。濡れた靴を履いたまま、彼女右手が俺の左頬に当てられた。
「あなた、私の物にならない」
「俺がお前の物」
「そう。私、あなたみたいな存在が欲しかったの。私が与えたものを受け取って。そして返さない。私から受け取るだけの存在」
彼女の左手が、俺の右頬に当てられた。
「あなたは、空っぽ。何も感じないから、満たされない。与えられても、それを感じられない。私は、与えたいの。あなたと言う存在に、全てを。何もない空っぽのあなただから、私は与えたい」
彼女は俺の両腕を掴み、胸の真ん中へと導いた。
「感じるかしら。私の心臓の鼓動。『ドクンドクン』って感じるかしら」
彼女の胸の真ん中、手から感じるのは。彼女が『ドクンドクン』と言う感覚。心臓の鼓動。
「感じる」
「私は、あなたに多くを与えるわ。これはその1つに過ぎない」
彼女が与えてくれるものは、俺の知らないことだった。味、美味しい、心臓の鼓動。知らないものを知るとき、何かを感じた。何も感じない俺が、何かを感じた。触れて感じる、感触とは別の。彼女の胸の真ん中に触れて感じた、心臓の鼓動とは別の。もっと深い場所にある感覚。
彼女だけが与えてくれるもの。感じない俺が、感じる何か。
「あなた、私の物になりなさい」
彼女が言う。「私の物になりなさい」と。彼女が求めている、俺のことを。その日、俺は求められた。俺のすべてを彼女に。
求められた、だから答えた。
「わかった」
俺は彼女の物になった。
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