出会い、与えられた
彼女は今よりは幼かった。中学生なのだから当然だ。
「何をしているのかしら」
「わからない」
俺はなにをしたんだろう。犬の首を絞めた。犬がそこに居て、そこから居なくなった。その時はそう思った。あの時俺は犬を殺したが、その事実は知らなかった。犬の首を絞める行動の先に、犬が死んだ結果が存在したが。意味はなかった。首を絞めたことも、死んだことも。何も感じなかったから。だから聞いた。
「俺はなにをしていたんだ」
彼女は俺の行動ではなく、俺が犬に何をされたか。その答えをくれた。
「そこの犬に右手を噛まれたのね。血が出てるわ」
血って、なんだ?
その時は思った。血に関する知識はあったが、手から流れる紅い液体が血だとは知らなかった。リンゴは赤くて丸い果物、と言う知識があっても。リンゴを見たことがないから、リンゴを見てもリンゴだとわからないように。それは勉強を止めていた弊害だった。
彼女の言葉を繰り返した。
「血が出てる」
「こっちに来なさい。血を流して、消毒するわ」
その時の俺にとって、彼女は知らない女だった。彼女は俺の左手を引いて歩く。犬が居たところから離れて、水道のある場所に行く。
水道から流れる水が、右手の血をを流していく。
この時右手から流れていた紅いものを、血と呼ぶことを理解した。
「深い傷ね。ちゃんと手当てしなければ、感染症になるわ」
「感染症?」
「病気よ、野良犬だもの。狂犬病は根絶されてるはずだけど、他の感染症を持ってる可能性があるのよ」
「病気」
「ここじゃ、手当てができないわ。私の家に来なさい、手当てしてあげる。このハンカチで傷口を押さえてなさい」
感染症も、病気も。知識はあったが、理解はしていなかった。彼女が教えてくれて、俺は理解した。全てではないが、表面上の知識だけは理解した。
「何をしてるの、左手で押さえるのよ」
今と何も変わらない。彼女に指示され、動いた。
「傷を押さえるの分かった?」
彼女に求められたから、動いた。
「そう、それでいいの。付いて来て、家に案内するわ」
彼女は歩いていく。俺はそれを追いかける。付いて来てと、彼女に言われたから。
歩くのが遅かったのか、彼女は俺の左腕を掴んだ。
「こっちよ、早く歩きなさい」
彼女が左腕を引き、言われるがままに歩く。
歩いた、左腕を引かれる方向に。夜の道を歩いた。空から月の光が降り注ぎ、雲に隠れては遮られる。
道は白くなり、黒くなり。彼女は歩く。
「ここが私の家、入りなさい。靴を脱いでね」
言われるがままに、靴を脱いだ。今と同じ、彼女の家。俺が帰りたいと思う場所。彼女がいる場所。本当の、俺がいるべき家。
「椅子に座ってなさい」
彼女が目の前から居なくなり、椅子に座れと言われて椅子に座った。すぐに戻ってきた彼女は箱を持ってきた。
テーブルの上に箱を置いて、箱の中から色々とものを取り出す。ガーゼに包帯、消毒液。傷を応急処置する道具だった。
「今から消毒するけど、我慢しなさい」
彼女は傷口に消毒液をかけた。彼女は俺が痛がると予想して、右手を強くつかんでいた。でも俺は何も感じなかった。動かない俺を、彼女は見た。
「あなた、痛くないの?」
「痛いって、なんだ」
その時も、今も。俺は痛みを知らない。何も感じない。今は何をすれば痛いのか、彼女が教えてくれたが。それまで、痛みを知らなかった。
「あなた、何も感じないの?」
「手、触ってる」
「感触はあるのね。でも痛みを感じない」
触れる、それを感じる。押している、握っている。感触はある。でも感じない。痛みがない世界で、俺は生きている。
彼女は、傷の手当てをしてくれた。
「それ以上は、病院に行きなさい。右手の怪我もそうだけど、痛みを感じないことも含めて」
家の玄関で、彼女に言われた。
一人で、夜の道を歩いた。家に戻った。次の日から、手の怪我は治療された。生きるために必要なものは与えられていた。病院にはお手伝いさんが同行した。怪我以外にも病気が見つかったが、両親が気にすることは無かった。欠陥品に、更なる欠陥が見つかっても。欠陥品であることに変わりがないから。1つ行為は増えた。中学校に行く前に、熱を測るようになった。
それから病気も怪我とも無縁で中学が終わった。
そして久しぶりに、両親に話しかけられた。
「欠陥品だが、家の格を下げられては困る。いい高校に入れ」
再び勉強することを求められ、勉強した。私立の高校に進学したことに、両親は満足したらしい。中学と変わらない生活が始まるはずだった。
その高校で、彼女に再び出会うまでは。そう思っていた。
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