与えられ、返さない
髪もしくは体を洗う。
それは風呂に入って、行う自然な行為だ。そしてもちろん俺は、彼女を洗う。
「前より髪を洗うの上手になったんじゃないかしら」
「そうであれば嬉しい。痒いところはないだろうか」
「痒いところはないけど、もう少し右側を強くマッサージしてくれるかしら」
「わかった」
彼女の後ろに立ち、髪に触れる。手触りのいい髪は、ずっと触っていたくなる。しっとりしていて、
「もう十分よ。泡を流して頂戴」
「わかった」
弱い水圧で、彼女の髪に付いた泡を流す。髪のを優しく絞って、温水を流した。
「体も洗ってちょうだい。いつものように優しくね」
「わかってる」
触れれば傷つけてしまいそうな肌を、本当に傷つけないように洗う。髪の隙間から見える首と背を。細くしなやかな腕を。女性らしい体を。引き締まった足を。強くこすらないように、撫でる。彼女の身体が泡に包まれ、素肌は見えなくなる。肌を滑って泡が床に落ちる。
「流すぞ」
「ええ」
温水が彼女の肌をなで、泡を床に落とす。泡は温水の上を流れ、排水溝に消える。彼女が湯船に入る前に、タオルを使って長い髪をまとめる。浴槽に入った時、湯に髪が浸からないようにする。
「ありがと。あなたも身体を早く洗って、浴槽においでなさい」
彼女の言葉に従い、髪と体を洗って湯船に入る。彼女は一度立ち上がり、俺が湯船に浸かってから座った。広い浴槽は、2人で湯に浸かっても狭くない。入浴剤の入った湯船は色がついて、水面より下は見えない。見えているのは、彼女の髪をまとめたタオルと首筋だけ。
「温かいわね」
「そうだな」
「あなたの身体の話よ。お湯より少し温かい」
浴槽に二人で入ってるのだから、必然的に肌と肌は触れあう。彼女は触れ合った箇所が温かいと感じているらしい。
「俺にはわからない」
「あなたにはわからないわ」
彼女は浴槽の中で向きを変え、俺と目を合わせた。
「他人からすれば、私たちの関係は狂って見えるでしょうね。こうして2人で浴槽に入っていても何も感じないし。私の身体を洗っていても何も感じないんだから」
「何かを感じるものなのか」
「私たちは普通ではないけど、普通は感じるのよ。男性も女性も、私の前では頬を赤らめる。瞳の中に私だけを閉じこめて、鼓動が早くなる。呼吸が早くなり、興奮する」
彼女の腕が首の後ろに回り、顔の右側で彼女の息遣いが聞こえる。
「触れ合っても何も感じることのできないあなたと。触れ合うことに意味を見出さない私には。関係の無いことだけど」
声が空気を振動させ、狭い浴室に彼女の声が反響する。
「あなた、今幸せ?」
「幸せを知らない」
「そうだったわね。質問を変えるわ、私と一緒に居て何を感じるの?」
彼女といて感じること……
「安心する。側に居ると落ち着く。声を聴くと余計なことを考えなくてよくなる」
「私といない時は?」
「考えがぐちゃぐちゃになって、不安だ。辛い」
「そうね」
彼女が足の上に座り、体重を感じる。
「あなた、恋とか愛に興味はあって?」
「それはなんだ、俺に必要なのか。それがなければ、お前と一緒に居られないのか」
「質問に質問で返してはダメよ。でも、そうね。あなたにはどうでもいい物かしら」
彼女の発した言葉。恋と愛と聞こえた言葉は、どうでもいいらしい。彼女がそう言ったのだから、正しいのだ。
「あなたは、私の側から離れることはないものね。私が与えるものを、受け取るあなた。私に何も返さないあなた」
彼女はゆっくりと立ち上がり、水面に波紋が広がる。湯船に立ち上がった彼女の言葉が頭上から聞こえる。
「あなたは私に何も返さない。何かを要求しない。ただ側に居るだけ。他の有象無象とは違う。あなたが側に居ると、私も安心するの」
彼女は浴槽を出て、浴室の扉に手を付けた。
「早く浴槽から出なさい。私が湯冷めするわ」
「わかった」
彼女と共に浴室を出て、彼女の身体をバスタオルで拭いた。彼女が脱いだ服を再び着る間に、自分の身体を拭いて脱いだ服を着た。
彼女の髪を乾かし、自分の髪を乾かし。寝室に向かう。
大きなベットは、彼女と二人で寝ても余裕がある。
「あなた、おやすみなさい」
「おやすみ、お前」
そして部屋の電気は消えた。
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