新緑の初色

さとう春乃

第1話

 季節は初夏。


 晩春をうに過ぎて山道の脇に立ち並ぶ木々は新緑に色付く。私はそんな長閑のどかな景色を車窓から眺める。


 朝日が向こう側の稜線りょうせんから顔をのぞかせ、四方八方の山々を橙色に暖かく照らし出す。砂利道を伝ってくる一定のリズムで来る振動が心地よい。私は軽く欠伸あくびをしながら、もうひと眠りしようかと贅沢ぜいたくな悩みを夢現ゆめうつつ逡巡しゅんじゅんしていた。


 しかし、そんな安らかな一時は一瞬で打ち破られたのだ。


「ねえ、もっとスピード上げてよ! このまま行ったら私たち遅刻よ!? 出席日数足りなくて留年とか絶対嫌っ!」


 そう言ってシートベルトを引きちぎらんばかりに私の左で身を乗り出しているのは、私の高校の同級生の蔵馬くらまようだ。彼女は同郷の幼馴染で家族ぐるみの付き合いもあり、私にとっては妹のような存在だ。制服の紺色のセーラー服に赤いスカーフを首に巻き、癖毛を赤いシュシュでポニーテールに束ねている。


 そんな彼女は、ドライバーが寝坊しているのにも拘らずのろのろと運転していることにすっかり腹を立てている。


 そんな彼女の言葉にハンドルを握る青年、桐生きりゅうゆるぎ、愛称キリオ君も取り乱して反応する。


「う、うるせぇ! 急ぎすぎて道踏み外して谷底に落ちたらシャ、シャレにならねえだろうが!!」


 右の窓を覗けば眼下には断崖絶壁が広がっていた。そして、さらに下を見ればそこには渓流が流れている。キリオ君は右の窓からそれをちらちらと見てはヒィヒィ言っている。


「こりゃあもうダメそうですね、お兄さん。諦めましょう。大丈夫大丈夫、『赤信号皆で渡れば怖くない』、『無理が通れば道理が引っ込む』の気概きがいがあれば遅れることなんてほんの些細なことにすぎません」


 そう言って助手席からスマートフォン片手に、冷笑を浮かべてキリオ君を揶揄からかう、白いシャツの少年は、彼の義弟の橳島ぬでしま扇丸せんまるだ。彼も私たちと同じ高校に通う生徒で、学年は一つ下。


「ちょっと!? そりゃ、今年入学した、あんたはそれでいいかもしれないけど、こっちは進級がかかってんだから! 悠長に遅刻なんてしてられないのよ! わかる!?」


 姚ちゃんの言い分も彼女の立場からしたらもっともな意見だ。彼女は入学して以来、何度か遅刻を繰り返していたが、それがいつの間にか進級出来るか出来ないかの基準のギリギリの所まで来ていたのだ。彼女としては進級のために、これ以上、出席日数に傷をつけるわけにはいかないのだろう。若干……というか完全に自業自得な気はするが、過ぎたことを根掘り葉掘りするのは好きではないからあまり追及する気はない。そもそも、竹馬の友にそんなことを出来るはずがない。


「おお! 確かにそれは一大事! お兄さんもアルバイトの出席日数の方は大丈夫ですかぁ? このままじゃ、Fire一直線ですね。でも、それもまた長い人生を見れば一興、神経図太く生きていきましょうよ」


 扇丸君は無闇に大げさに反応すると、キリオ君に飛び火を掛けて、悪戯な顔で螻蛄螻蛄ケラケラと運転席の彼を横目に見る。


「だーーっ!! 余計なことを思い出させるな! 折角職場の雰囲気にも慣れてきたってのに……。それに、俺だってこう見えて滅茶苦茶焦ってんだよ! あぁ……また遅刻したら、今度こそクビになるぅ……」


 キリオ君はすっかり情緒不安定の錯乱状態に陥っていて本当にこのまま滑落してしまうのではないかと見ていて思わず冷や冷やする。


 こんな、ずんべらぼうな彼だが、こうして相乗りさせてもらっていることに私たちはなんだかんだ言って感謝している。私たちの住む集落である独楽泉村こまいずみむらは電車どころかバスやタクシーさえ通っていないから、移動手段はといえば自動車と自転車に限られる。自転車も悪くはないのだが長距離、しかも急斜面の山の上り下りを毎日するとなると大変な労力だ。


 しかし、その弊害は、こうして一人が遅れるとほぼ全員がパニック状態に陥ってしまうことだ。特にこの崖の隣りを走るときは必ずと言っていいほど車内が喧騒に包まれる一種のイベントスポットのようになっている。


「ねえ、トワも何か言ってよ!」


 私の方を向きながら姚ちゃんが発言を促す。車内はすっかり阿鼻叫喚あびきょうかんの嵐だ。そんな様子を見かねた私は彼らに声をかける。


「まあまあ、皆、落ち着いて。キリオ君もあんまり急がなくていいよ。自分のペースで運転してね」


「「余計なこと言わないで!!」」


 私の言葉は姚ちゃんと扇丸君の声によって遮られてしまう。扇丸君はともかく、発言を要求した姚ちゃんまで全否定するなんてあんまりだ。因みに、キリオ君はというと運転に集中している動の耳には全く入っていない。


 悄気しょげた気持ちを慰めるために私は再び車窓から安穏あんのんな風景を眺める。いつの間にか先ほどとは景色が変わり、新緑が一面に広がっていた。


――私、衣咲いさき十和子とわこは人一倍おめでたい能天気な女だ。自覚は全くないが、姚ちゃんやキリオ君が私のことを口々にそう言うので今は開き直っている。


 走る軽自動車の窓に栃の木の葉が軽く当たってカラカラと音をたてた。


――そんな私にも好きな人ができてしまったみたい。


 一人、火照った顔を冷ますためにガラス窓を開けると、向かい風が車内を循環して心地よい。私は揺れる髪をそっと手で抑える。


――初恋の香りは桜を夢見ていたけれど、私の初恋は色と香りを変えて少し遅れてきたようだ。


 風に運ばれた若葉が、窓から入り込んで私の隣へと舞い落ちた。



 放課後のベルが鳴り響く。


 今日の午後の授業が終わって私は漸くホッと息をついていた。昼食の後は必ずと言っていいほど睡魔が襲ってくるから本当に油断ならない。午後の教室を見渡せば教室内の過半数の生徒は机に突っ伏している。その顔があまりにも心地よさそうで、危うく私自身も眠りの荒波に沈められそうになる。


 右後ろを見ると姚ちゃんが小さく寝息を立てて眠っている。彼女は今朝の出来事で半日分の気力を使い果たしてしまったようだ。


 今朝、あの後どうなったのか。


 結果から言うと私たちはなんとか無事に定刻通り登校することができた。あの様子だと、キリオ君もバイトには間に合っているはずだ……そうであって欲しい。


 その時、隣からふと声を掛けられる。


「かぁーーっ! 助かったぜ。サンキューな、衣咲」


 そう言って私に礼を言ってきた茶髪の生徒はクラスメートの慶璽けいじ君だ。彼のお礼の理由は、今朝数学の課題を写させてあげた件だろう。どうやら、登校するまですっかり忘れていたようだ。


「どういたしましてだよ、慶璽君」 


「慶璽、次からは課題くらい自分で片づけなさいよ。トワは優しいから嫌な顔一つしないけど、すっごい迷惑してるんだから」


 いつの間にか目を覚ました姚ちゃんは、寝起きとは思えぬ覇気で生き生きと彼を叱責する。

 

 そんな姚ちゃんも昨晩、私を呼び出して課題を一緒にやって欲しいと泣きついてきたのを思い出して、苦笑が溢れる。


「そんなことないよ……。でも、再来年は大学受験だし、今の内に勉強する癖を点けておいた方がいいかもね」


 そう彼に言いつつ、ふと辺りを見回すと「例の彼」がいなくなっていることに気が付く。


 もう、教室を離れてしまったのだろうか。だとしたらいつもの場所にいるのかもしれない。


「姚ちゃん、じゃあ私もう行くね」


「今日も自習してから帰るのか?」


 慶璽君の問いに頷くと、姚ちゃんが大袈裟な反応を示した。


「くぅーーッ! 真面目だねぇ。流石は優等生! 私の幼馴染! あっ、そうそう。十和子は今日の帰りどうするの?」


「私はキリオ君が帰る時間帯に合わせて下校しようかな。姚ちゃんは?」


「そっかぁ。私は部活もないし……辰屋たつやは部活で茉莉歌まりかは用事があるとか言ってたから、今日はこのまま徒歩で直帰かな。あぁ、だるぅ……」


 私は肩を落とした彼女に苦笑しながら荷物を纏めると、そのまま教室を後にするのだった。




 廊下のフローリングは新品のように光を放っている。それだけではなく壁や窓、天井に至るまで全てが一新されたように洗練されている。それらは全て、到底田舎の小さな高校のものとは思えない。


 廊下もそうだが、木造にも拘らず教室も新築校舎のように綺麗な造りになっている。それもそのはず、今年の春に校舎の大幅な修繕が行われたのだ。熱心に支援を行う奇特な後援者が大勢いる。


 生徒である私たちからすれば綺麗な校舎で学校生活を送れるのは手放しに喜ばしいことで、本当に後援者様様だ。


 そんなことを考えながら廊下を下っていると、気が付けば突き当りにまで来ていた。


 そこから右側を向けば、小さな木の引き戸が見える。そして、扉の横に小さく『図書室』と書かれた看板が掛けられているのだ。


 引き戸に手をかけるとミシミシと音を立てながら開かれた。



 この扉も是非、修繕してほしかったが学校側にも予算というものがある。見栄えはあまりよくないものの、使う人が極端に少ないため残念ながら手を施してもらうことは叶わなかった。


 教室内には誰一人としておらず静寂のみが支配している。


 図書室という名を与えられてはいるものの、実際にはそれほどの広さではなく、校舎の中で空いた小部屋に本棚をこれでもかと壁一面に詰め込んでいるだけだ。そのせいで、ただでさえ狭い部屋を圧迫している。


 特に近年のIT化の波はこの片田舎まで及んでいて学校からの本の貸し借りも紙媒体よりも電子書籍が主流となっていて図書室は完全にお役御免だ。校内にはPC室も備えられていていて、電子書籍の貸し借りはそこで行われているから、本を読みたい者或いは借りたい者は専らそこへ足を運ぶ。


 それでも私はなんだかんだ言って紙の本が恋しくて度々ここを訪れている。


 図書室の向かって左奥へ進むとまた、扉がある。こちらは開き戸で、上にはかすれた字が見える。これは『閲覧室』と書かれているのだが、あまりにも古ぼけているせいで、言われるまでは、それが何を示しているのかを認識できるものは少ないだろう。


 この閲覧室の扉は、丁度本棚の影になっていて図書室の入口からは見えない構造になっている。そのため、この閲覧室の存在を知っている現役生徒の数はごく僅かだろう。そもそも図書室に足を踏み入れたことのない生徒が大半なのだ。


 私はそっと、扉を開ける。


 足を踏み入れた先には、これでもかと殺風景な空間が広がっていた。図書室よりは多少広いものの非常に閉塞的へいそくてきで、外界を感じさせるものは奥にある換気用の小窓だけだ。しかも図書室を経由しなくては廊下にすら出られず、差し詰め、広い独房のようにも感じられる。


 室内にあるものと言えば、壁伝いに並んだ所々錆びつきの見える緑色のロッカーと、真ん中にある長机、それとその周りに無造作に置かれた椅子くらいなものだ。


 そして、その椅子の一つに『彼』の姿があったのだ。


 彼の名は菅生昇吉すごうしょうきち。私のクラスメートでこの閲覧室で頻繁に顔を合わせる人物だ。


 そして、『例の彼』、私の初恋の片想い相手でもある。


 去年は閲覧室ここに来るのは私くらいなものだったが、今年になってから彼をここで見かけるようになった。同級生ではあるものの、それまで真艫まともに口も利いたことがなかったから当初は私も戸惑っていた。


 しかし何度もここで会っているうちに親睦が深まり、今では勉強を教えたり、自習の合間に他愛もない話をしたりするまでの仲だ。


「やっぱりここにいたんだね」


「なんだよ。いたら悪いか?」


 そう言われて私は思わず、『しまった』と自分の失言を後悔する。こんなことを言ってはどう考えても何かしらの意味を含蓄しているようにしか聞こえない。せめてもの救いは、彼が私のこの心を察していないことだろうか。


「お隣、座ってもいい?」


「ああ、勝手にどうぞ」


 昇吉君が無愛想にそう言うと、私は彼の右隣に座り、さらにその右の席に荷物を我が物顔で置いてやる。誰も来ないこの閲覧室は、私たちのプライベートルームのようなものでこうして自習室代わりに使っている。


 彼のことが気になって彼の近所に住むというクラスメートから話を聞いたところ、どうやら彼の家はシングルマザーで、その母はコンビニエンスストアの店長であるらしい。


 そして、それが理由で彼は母の手伝いに追われているようだ。

 また、この高校では珍しく大学進学を目指しており、その奨学金を取得するためにこうして勉学に励んでいるのだという。


 昇吉くんは私が隣に座るのも全く意に介さない様子で机上とにらめっこをしている。


 私も問題集とノートを肩掛けから取り出すも、ついつい気になって彼の顔を伺ってしまう。


 この学校には図書委員の生徒もいなければ、図書室長の教諭もいない。だから、この教室には生徒も教師もほとんど誰も入ってこないのだ。それがなんだか、私たち二人だけの空間が作られているような気がして心が落ち着く。


「なあ、衣咲。この問題よくわからねえんだけど、教えてくれねえか?」


 彼が初夏にも拘らず小麦色に焼けた顔をこちらへと向ける。

 そしてその目つきは……あまり良くはないかな。


 それにしても、いつから私が彼に恋心を抱くようになったのだろう。


 頑張り屋だからだとか、健気だからとか、親孝行者だからとか、単なる一目ぼれだとか。恋心をいだいた理由なら後付っぽくてもいくらでも出てくる。


 人間どんな出来事も過去になれば美談として、無意識のうちに脚色されていく。それは時に熱情的に、そして悲劇的に……。


 人間の記憶という物は実に曖昧なものだ。特に感情なんて不安定過ぎて、直ぐに変容してしまうから。


「なあ」


 再び昇吉君に声を掛けられて私は漸くハッとする。


「あっ、ごめん。問題がわからないんだよね」


 すっかり、うわの空になっていた私は咄嗟とっさに彼の直前に言っていた言葉を取ってつけたように復唱する。そんな私に彼は怪訝けげんそうな表情を浮かべた。


「どうした? 俺の顔なんか変だったか?」


「ふふっ。なんでもないよぉ」


 私が昇吉君のあどけない顔を見てクスッと笑うと、彼はムッとしたように私を見る。


「なんだよ……。変なやつ」


 そんなことを言われると、なんだか一人で盛り上がっていたみたいで少しだけ恥ずかしくなる。でも、それが少しだけ嬉しくて……。


――ああ、こんな時間がいつまでも続いて欲しいな。


 些細で単純なことを願いながら、私はゆっくりと席から立ち上がる。


「窓開けようか」


 そんな気を紛らわすように私は立ち上がると彼に背を向けて窓辺に向かって進む。


――でも、この気持ちは……少なくとも今は秘密のままにしておこう。


 私は小窓をゆっくりと開け放つ。


――夢は夢のままで見ていたいから。


 新緑の香りをまとった涼風が室内へと誘いこまれる。


 青春の淡くて儚い恋心。いつか終わるとはわかっているけれど、今はそれを大切に心に刻み込んでおきたい。それが私の細やかな願い、私の一番の幸せ。それが続くのなら実らぬ恋の片思いも悪くない。


 そんなことを考えながら私は席に戻る。


 今年の夏はまだ始まったばかりだ。

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