太陽に、弓を引く。

水野酒魚。

太陽に、弓を引く。

 百年ぶりに雨が降った。

 慈雨じうはたちまち、渇ききった中原に大河を呼び戻す。大河は欣喜きんきとして流域をうるおした。魚は河に戻り、河獣たちは夢見ていた馳走ちそうを貪る。

 中原を離れていた邑人むらびとたちは、次第に帰郷し始めた。すでに、郷里の景色を知らぬ世代もいる。疎開先から戻らぬ家も多かった。

 百年の間続いた旱魃かんばつの原因、それは天を行く十あまりの日輪にちりんであった。

 天帝の御子みこたち。あまねく天上天下を照らす、十の太陽。

 始め、御子たちは一日に一人が中天を渡って天下を照らしていた。

 陽の恩恵によって地は程よく温められ、作物は良く実り、人々は良く働き、禽獣きんじゆうは良く肥えた。

 だが、次第に御子たちは十日に一度の責務では満足できぬようになった。

 我こそは第一。我こそが日輪。競い合うように一人、二人と御子たちが天を行く。兄が行くなら我も、弟が出しゃばるなら我も。斯くして十の太陽が同時に天空に並ぶこととなった。

 困り果てたのは、天下の民草。十の太陽が一遍いつぺんに空に昇る威力は凄まじかった。河はことごとく干上がり、草木は枯れ果て、灼熱しやくねつした大気が容赦なくはだを焼いた。

 雨水をつかさる四海の竜王は、慌てふためいて天帝に奏上そうじよう申し上げた。

『御子様をおいさめください。御子様のお出ましをお止め下さい。このままでは、天下の生き物は皆死に絶えてしまいます』

 天帝は御子たちを呼び集め、元の通り十日に一度の勤めを果たせと厳命した。

 しかし、御子たちはその言葉を聞き入れなかった。

『九日も、退屈を持て余すのは苦痛でございます。仲の良い兄弟たちと、いつでも一緒に居とうございます』

 声を揃えてもっともらしい事を言う十人の御子たちは、いつまでも互いに譲ろうとはしなかった。

 やがて、天帝は深く嘆息して、一人の武臣を呼び出す。

 弓の名手として聞こえたその英雄は、名を后羿こうげいと言った。

 天帝の勅命により、后羿はただちに丹弓あかゆみと白羽の矢をたまわって地に下る。

 英雄神は、天下を預かる地の帝の前に現れた。

 地の帝は驚くと同時に天を仰ぎ、天帝に感謝の礼を捧げる。

 天に十の日輪が昇るようになって、地の時間ではすでに九十九年。その数を多く減らした人々は、高い山の陰に隠れるように都を作りようやく命脈を繋いでいた。

 英雄神は、太陽がよく見える山に足場を定め、御子たちに向かって矢を射かける。

 無論、御子たちを傷付ける訳には行かぬ。白羽の矢は虚空に向かって放たれた。

『御子様、天帝陛下のちよくをお聞き下さい。天下の良民は皆苦しんでおります。互いに争わず、競わず、ご自分の責務を全うなさって下さい』

 后羿の言葉など、さざめき合う御子たちには届かない。今日も最後の御子が西の山々に沈むと、地の帝とその臣下たちは、后羿に縋り付いて悲痛な叫びを上げた。

「このままでは、我らは絶滅を待つばかり。どうぞ我らをお救い下さい。民草をお救い下さい。中天にある日輪は、たった一つで良いのです」

『あの日輪は、天帝陛下の御子様たちだ。射殺してしまう訳にはいかぬ。御子様を射落とせば、臣下としての分を越えることになるだろう』

 躊躇ためらいを見せる后羿に、地の帝は伏して懇願こんがんする。

「御子としての本分を忘れ、天下万民をいたぶり、苦しめ、それでも己のが所業を省みることも無い、そんな非道の御子を弑逆しいぎやくすることはきっと天帝陛下のご意志なのです。それ故に、文神では無く武神であらせられる后羿様が地に使わされたのです」

其方達そなたらの言い分は解った。だが、わたしに三日の猶予をくれ。三日の内に、我が御子様たちを説き伏せられなかったその時は、其方達の嘆願を聞こう』

 地の帝と約定を交わして、后羿は翌日もその翌日も山に降り立った。

 后羿は、白羽の矢と共に御子たちを諫める言葉を放つ。十人の御子たちは聞く耳など持たず、后羿をせせら笑う。白羽の矢が、自分たちを傷付けることなど無いと高をくくって。

 三日目も、后羿はやはり山に立った。

『お願いでございます。御子様方。職責をお果たし下さい。天下の民草を、禽獣を、草木を顧みて下さい。皆苦しみに喘いでおります』

 その日、后羿は声がれるまで呼びかけ続けた。だが、御子たちは、けらけらと笑って取り合わない。三日目、最後の御子が西の山々に沈む。

 ──夜が来た。

 后羿は意を決して、十の太陽が消えた空を見上げた。

 翌日の日の出。一番年嵩としかさの御子がゆっくりと空に昇る。山の頂上で朝を迎えた后羿は、丹弓を引き絞る。

 御子たちが、次々と山間から現れた。

 一つ二つ……十。ずらりと並んだ太陽が、今日も地上を灼き焦がす。

『お許し下さい。天帝陛下。不肖ふしようの臣には最早この弓箭きゆうせんしか残されておりませぬ』

 始めの一矢がひょうと澄んだ音を立てて、一直線に真ん中の御子を射貫く。

嗚呼ああっ』

 驚愕の叫びを上げて、御子の一人が天空から転がり落ちた。灼熱していた御子の遺骸は、真っ黒くすすけて一羽の大烏おおがらすと化した。

 慌てふためき、御子たちは蒼穹そうきゆうを逃げ惑う。

 弓を引く度に后羿の矢は精確に、御子たちを射落として行く。御子たちの悲鳴を聞きながら、それでも英雄神は弓を扱う手を止めない。

 九本の矢で、九つの太陽が天から消えた。

 たった一人、陽烏たる御子は震えながら中天に残された。

 それは一番幼い御子。最も年若い太陽だった。后羿は、御子に向かって一礼する。

 その横顔は苦悩に満ちていたが、固く結ばれた唇には、全てを覚悟した者の穏やかさがあった。


 后羿が御子たちを射落として、七日後。

 百年ぶりの雨が、渇ききった大地に降りた。

 雷鳴と共に。地上に天命が下る。

 地の民草の苦しみを除いた功により、丹弓と白羽の矢は后羿に下賜かしされた。

 だが、御子たちを弑逆した罪により、后羿は妻もろとも神籍を剥奪はくだつされた。

 美しい虹色の羽衣を天に返した妻は、泣き出しそうに眉を寄せながら、夫に寄り添った。

「貴方様は、さねばならぬ事をなさいました。それが罪だと言うならば、わたくしは喜んで貴方と共に罰を受けましょう」

 后羿は愛しい妻を抱き寄せて、何度もすまぬ、すまぬとつぶやく。

 天の英雄神は地の英雄となり、数々の悪獣怪異あくじゆうかいいから人々を護るために弓を用いた。

 それはまた、別のお話。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

太陽に、弓を引く。 水野酒魚。 @m_sakena669

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説