第46話・解かれた記憶、目覚めぬ拒絶

 雪の中早足で戻ってきたエルは、真っ青な顔をしていた。


「エル殿」


「……遅かった、ようだ」


 抱えていたジレをベッドに寝かせながら、エルは唇をかんだ。


「何処までルイツァーリが喋ったかは分からん。だが、少なくとも名前は呼んだだろう。でなければ、ジレが気を失っている理由にはならん」


「名前……ジレフール?」


 エルは小さく頷いた。


「どんな堤も、壊されるのは蟻の一穴からだ。ましてやそれが本人を強烈に揺さぶる物ならば。ジレフールという名は、十年かけて培われた堤を、崩落させる穴」


「……アルくんは」


「無理」


 叩き起こされてやってきたアルは、小さな声で言った。


「僕が魔法猫だったら何とかなったかもしれない。でも、今の僕は人間に使える魔法、とされてる。それが、ヴィエーディア師匠がつけた限定だからね」


「限定……?」


「虫入り琥珀……アルの瞳の虫を活性化させない為の制約だ」


 エルが答える。


「強力な魔法は、僕の中にいる悪意と殺意を活性化させる。そして虫が瞳を覆いつくせば、僕は暴走する悪意になってしまう」


「…………」


 アルの魔法でもどうにもならないのか。


「でも、決して思い出しちゃいけない、ダメな記憶だけじゃあない……。決して真っ暗なだけの記憶じゃない……」


 アルは首を横に振りながら言った。


「十歳の時。エルアミル王子に再会して、フィーリア様と会って、ヴィエーディア殿と会って……身体がよくなって、屋敷ごとブールを出て。その辺りは、ジレは楽しそうだったんだ。体が丈夫になって、ベッドから降りられるようになって、毎日遅くまでお話しして……。屋敷が空を飛ぶたびに元気になって。……その短い記憶は、紛れもない「幸せな」記憶のはずなんだ。そして、「ジレーヌ」と言う記憶は、八つ当たりをしても、色々楽しい思い出があるはずなんだ」


「じゃあ、心配はいらないと……?」


 ううん、とアルはもう一度首を横に振る。


「……封じた記憶は、開いた鍵によって、どこから蘇るかが違うんだ。多分、ルイーツァリさんは、「ジレフール」というのが精いっぱいだったんだろうと思う。……そして、その名で呼び起こされた記憶は、ベッドから離れられない体、父親からの、王鷲たちの冷ややかな目。鷲王になれるはずがないのにブローチを持たされている、邪魔者。鬱陶しい。汚らわしい……そんな記憶」


「……最悪か」


 セルヴァントとプロムスもやってきた。


「ジレ……」


「ジレ……」


 いつも、傍でジレフールを大事に見守ってきた二人も、アルの説明を聞いて暗い顔をした。


「ジレ……ジレフール様は、ずっとベッドの上でしたから……」


 セルヴァントの目も赤くなる。


「他の王鷲には持っているだけ、邪魔なだけ、いるだけ無駄、と思われ、フィリウスのような陰険な者からは遠回しに「死ね」と言うような手紙が届き、しかも王鷲印入りの正式文章なので、ジレフール様の王鷲印を押すためにはジレフール様がお読みにならなければならず……」


「あのクソ兄貴、左腕も握り潰してから首をへし折ってやればよかった」


 プロムスの告白に、エルがイライラと爪を噛む。


「アルくんの伝で行くと、王鷲として嫌なことを味わわされた記憶が蘇っているということですか」


 リッターは渋い顔をする。


「うん。それで、それを思い出して、目覚めたくないから眠ってるんだ。悪夢でも、現実じゃないからって……」


 アルの琥珀の目は光を宿している。ジレの様子を見るために、瞳にかけられた呪縛を一時解いてでも何とかしなきゃと思っているんだろう。


「……暗い記憶に捕らわれて、抜け出せない……」


 エルが悔しそうに言う。


「何とか……楽しい記憶につなげてあげることはできないのかい?」


「リッター兄」


「王鷲の名を捨ててから、エル殿が冒険者になるまで。冒険者を始めてから、これまで。いやなこともあったはずだけど、王鷲の記憶に比べたらよほどいいはずだ。暗い記憶のどこかに、楽しい記憶に続くきっかけがあるかもしれない。アルくん……つなげてあげることは、できないかい?」


「……僕一人じゃ、難しい」


「……私たちに何かできることがあるのかい?」


「……うん。エル兄とリッター兄なら」


「俺たちが……どんなことを」


「眠ってもらう」


「は?」


「正確には、魔法で、ジレの心の奥底に入ってもらう」


「心の中に……入って、どうするんだ」


「暗い記憶から、明るい記憶を引き出す」


 アルは表情を顔を出さずに言った。


「つまり、こういうことかい? ジレさんの心は、今、暗い記憶で回っている。明るい記憶につながる道筋がない。そこに私やエル殿と言う異分子を入れることで、ほころびを作って明るい記憶へ繋がっていくように導く……。でも、それなら、私を入れる必要はないんじゃ」


「さすがはリッター兄」


 アルは少し目を丸くした。


「でも、下手なところをつついたら、ジレの心が潰れてしまう可能性もある。エル兄はちょっとそういうときに疎いところがあるから、リッター兄がフォローしたげて」


「……俺はそんなにやらかしそうか?」


「少なくともジレが八つ当たりの相手に選んだのはリッター兄だよ。エル兄、ちょっときついこと言われると言い返しちゃうでしょ。だからのリッター兄なんだから」


「……分かった。リッター。頼む」


「人の心に入るのは失礼だし、危険なことだと思うけど……」


 リッターは顔を上げた。


「このまま暗い記憶から抜け出せないジレさんを見てるだけは辛い。だから、私にできることがあるなら……やる」


 リッターの言葉に、アルが、エルが小さく頷いた。

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