秋空に染められて
気付けば九月半ば、昼間は夏が恋しいように、三〇度を超える日が続いているけれど、夜は、熱気を冷ましてくれるように、爽やかな秋風が肌に触れていく。景色はまだ夏の深緑と、街は落ち着きのある風合いに彩られ、気分も秋色に染まっていくようだ。
七海と付き合って五ヶ月が経つ、彼女と過ごすことに、少し慣れが出てきた気がする。つまらないわけではないし、嫌なわけではない。マンネリというほどでもない。エッチも会えばしているし、イチャイチャだってする。ただ、本気の好きってこういうものなのかと、映画やテレビの主役とヒロインほどの、熱い思いがないように感じる。まあ、空想と現実は違うってことだ。
他に目移りをしている……いや、違う。七海のことが好きだし、このまま結婚——はまだ早いし、わからない。
けれど、思い出す。
結婚、一度本気で考えたことがあった。本気と言っても、まだガキで夢を見ていただけかもしれない。でも、少なくともあのときの勢いは本気だった。
高校二年のとき、初めて恋人ができた。そう思っていたのは、結局は俺だけだった。けれど、当時は恋をしていた。
ハンドボール部の試合で他の高校に行った際に、応援席に座っていた。たまたま目が合った。初めは気にしていなかったけれど、常に視線を感じるようになった。休憩のとき、話に行ったのが始まりだ。
普段は部活で忙しくて、なかなか会えなかったけれど、休日前の部活後や、日曜、少ない時間だったけれど、会ってはエッチをしていた。その時間帯は親が家にいないらしくて、何も気にせずに会っていた。
二ヶ月くらいはそんな日々が続いた。高校生の自分にはエッチする、イコール彼女だった。だから両思いなのが当たり前だと思っていた。
それが崩れたのは彼女の一言だった。
『妊娠したんだ。だから、ごめん』
意味がわからなかった、なんで謝っているのか。言われるのは怖かったけれど、もし、そうなったら学校辞めて働いて、ふたりを養っていかなくちゃいけないんだ、と思う心が頭の隅の方にはあった。
だから、そう言われたときは、結婚という言葉を期待していたのかもしれない。
でも、違った。
『彼とあんまりうまくいってなくて、だからりゅうくんかわいくて、惹かれてて。こうなっちゃったけど、ちゃんと話したら結婚しよって、だから』
『なんで? 俺の子どもかも』
『りゅうくんとは、ちゃんと避妊してたし、たぶん違うと思う』
『だって、俺のこと好きって……』
『ごめんけど、そーゆー好きじゃないの。それに、結婚なんて無理でしょ? 高校生なのに』
『でも——』
これ以上何も言えなかった。俺が何を言っても断られるんだとわかっていたから。
エッチって、付き合うって、好きって、何なのかわからなくなった。頭の中が、生ゴミのようにぐちゃぐちゃになって腐っていくようだった。
これまで、何も考えずに頑張っていたことがバカらしくなった、部活も学校も、友達も。家にいたくなくて、学校をサボり、街を歩いたり、ゲーセンに行ったり、補導されそうにもなった。学校に行ったら行ったで、無性にイラついて、自分からケンカをふっかけたり、何もなければ保健室にいたりと、無駄なことばかりしていた。勉強なんてくだらない。何のためにやっているのかもわからない。だから、学校を辞めようと思ったのに、両親に止められ、渋々通うしかなかった。
そんな中、その負のルーティンを断ち切れたのも、道永徹人と久津見佑のおかげだ。殴って、ケンカして、思いの丈をぶつけて、ぶつけられて、同じように泣いてくれた。バカにすることもなく、純粋に俺を抱きしめてくれた。嬉しくて、悔しくて、情けなくて、どうしようもない感情を、このふたりが受け止めてくれた。少し、時間がかかったけれど、立ち直ることができた。
俺は絶対にこのふたりを裏切らないし、一生守ってやると心の中で誓った。
親友、いや真友。そんな一言で言えるほど簡単なものではない。でも、本当に大切にしたい友達とは、こういうものだと思った。
風の噂で聞いた話だ。綾乃は結婚して学校を辞めたとか。幸せに暮らしているのかは知らない。
「琉くん、聞いてる?」
「えっ? ごめん。考え事してて」
「もう。今日ジム行くからって、筋肉のことはひとりになってからでもいいでしょ?」
やけに向きな言い方だ。
「いや、別に筋トレのこと考えてたわけじゃ……」
「じゃあ、何考えてたの?」
「何ってさ」
「最近、いつもそうだよ。一緒にいても何か考えてたり、ボーッとして……」
少し棘のある言い回しにイラッときた。
「何だよ、いきなりさ」
つまらなさそうに答えた。
「だってそうだよ。今だって、十月の半年記念日にどこ行くって話してたのに、急に自分の世界に入っちゃって」
「別に、無視したわけじゃねーだろ? ちょっと考え事しただけで、なんでそんな言い方されなきゃいけねーんだよ!」
「……もう、いいよ。今日帰るから。このままゆっくり自分の時間大切にしなよ」
ちょうど地下鉄の入り口だった。捨て台詞のように言い、こちらも見ずに階段を降りていった。去り際、チラッと見えた目元に涙があったようだった。
「おい、待ってって……」
ため息が出た。急な展開すぎて、頭が追いつかなかった。そりゃ、考え事をしていて、無視したようになったことは、悪かったかもしれない。でも、あんな風に怒り出されても、意味がわからない。途中、イラッとして言い方がキツくなったのも悪かったと思う。けれど、七海が何をそんなに腹を立てているのか、理解ができなかった。
地下鉄を出て歩く。こういうときは、ジムでガンガン追い込んで、がむしゃらになったほうが気が紛れる。腕を回し、首を回し、気合を入れて、ジムのドアを開けた。
限界がきてからのもう二回あげるところを、今日は三回あげた。ベンチプレス百キロ、いつもはヘタレそうになるけれど、今日は気合いで乗り切れた。胸筋のパンプが半端ないほどにエグくて、Tシャツの上からも筋がくっきりと見えいる。もちろん上腕、上腕二頭筋も最高にパンパンだ。筋トレ後はテンションが上がる。今日はいつも以上に上がっている気がする。
癒されようと風呂に入りたくなり、ネットで近場を探した。不意に七海のことが頭に浮かぶ。ひとりでうじうじ考えるのも嫌だった、そこで道永徹人久津見佑に連絡をした。
「があー、筋トレ後の温泉は染みるー」
「バイト後も染みるー」
「なんもしとらんけど、染みるわー」
高校のときは、部活後などよく銭湯に行っていた。名古屋は東京のように、そこら中に天然温泉が湧き出してはいない。だから、銭湯だった。ただ、汗を流すためだけだったけれど、裸の付き合いって大事だったなと、今は思う。
「りゅう、七海ちゃんどーすんの?」
「どーするも何も、意味わかんねーし」
「琉一さん、もう、そのときがきたのかも。残念だね」
「くっちー、寂しいのはわかる。でもな、りゅうは七海ちゃんのことが好きなんだよ。今は諦めるしかない」
「諦めるって、俺は別に何もないし、できないし……」
「久津見、俺と何したいんだよ?」
「りゅう、それはさすがに可哀想だよ」
「えっ、何が?」
俺は、久津見が筋トレしたいんだと思い、合トレに誘いたかっただけだ。
「なあ、まだ、綾乃さんのこと……」
「えっ? 綾乃のこと? ないない。とっくにない」
「そーだよ、みっちー。琉一さんにはちゃんといるんだから」
「わかってるって。ただ、りゅうって高校のときから、心ここにあらずみたいなのあったし」
「そーか? 俺は別に」
「琉一さんは、自分の心に従えばうまくいくよ。今はまだ……」
久津見が固まった。何かを言おうとしていたけれど、思考停止したようだ。
「おい、くっちーどーした?」
「久津見?」
ふたりで、目の前で手を振った。
「えっ? 何でもない。何も言ってない」
「はっ? 何だよ、今はって」
「あっ、今はまだまだ大人になりきれてないから、これからわかってくんじゃない的な」
「くっちー、何言っての? 大人になりきれてないのは、おめーだよー」
徹人は、久津見のタオルを端の方に投げた。
「みっちー、ハンドボールじゃないからね」
そう渋りつつ、タオルを取りに行った。
久津見は、ひとつ年下で弟みたいなものだ。けれど、たまに大人というか、へなちょこに見せていて、実はめちゃくちゃしっかり者なんじゃないかと思うところがある。
「ねえー、みっちー、琉一さんこっち来てよ。きれいだよ」
きれい……、温泉に温泉以外にいいものがあるのかと、お互いに頭を傾けながら、久津見の元へと行った。
「くっちー、何だよ」
「ほら、コスモス。ライトアップされてて綺麗だよ」
「久津見、お前昔から花とか好きだよな?」
「まーね。綺麗なものは綺麗なものに惹き寄せられる的な?」
「何言っとんだて」
徹人が久津見の脇腹を、ドリルのように手で突っついた。
「うげっ、今、腸ねじれたでね」
「お前ら名古屋弁どらでとるがや」
「くっちーのナル具合に、つい」
「俺は真実を言ってるだけ……」
「つーか、これコスモスなの? コスモスってこんな黒い花だった?」
「これはチョコレートコスモスって言って、深いボルドー色が特徴で、匂いも」
久津見は花に引き寄せられるように、匂いを嗅いだ。
「うん、いい匂い」
「えっ? マジか、チョコレートだ」
「りゅうまでそんな……チョコレートだね」
花に興味があるわけではないけれど、この花は本当にチョコレートのような香りがして、たまには自然に触れ合うのも、いいものだなと思った。子どもの頃は、祖父母の家の裏山で、よく駆け回っていたのを思い出す。
いい湯だった。徹人は家の方向が違い、途中の乗り換えで別れた。久津見は一駅違いで、どちらの駅から降りたとしても、帰り道には困らない。
「琉一さん、本当に七海さんのこと、好き?」
いきなり、当然のような質問をしてくる奴がいるか?
「好きに決まってんじゃん。じゃなかったら付き合ってないし」
「ふーん。でもさ、たまに違和感とか変な感じしない?」
「しない。いや、違和感ってか、物足りなさっていうか……でも、そんなの普通だろ? 完璧な付き合いなんてないんだから、それをお互いに埋め合うってのが、恋人同士なんじゃないの?」
ドラマやアニメの世界なら、相思相愛でキュンキュンするのが恋愛なんだろうけれど、現実はそこまで熱くはないと思う。好きだし、可愛いし、離さないって思いはある。それ以上のものなんて、みんなが恋愛の自慢をしたいがために、大袈裟にアピールしているだけなんじゃないかな?
もちろん、付き合い初めは別だと思う。急上昇する熱に、我を忘れて恋しくなる。俺もそうだった。
「じゃあね、琉一さん」
「ああ」
結局、久津見の方の最寄りで降りて、ずっと話しながら歩いていた。
久津見も彼女を作ればわかると思う。恋愛の理想と現実は違うってことを。そういえば、久津見に彼女ができたって話、聞いたことがない。中学生のときから知っているのに、一度もない。告白されたと聞いたことあるけれど、その後付き合って別れて……そんな話、聞いた覚えがない。あれっ? あいつって童貞なの? ふとくだらない疑問が浮かんだ。でも、どこぞの見知らぬ女に、奪わせるわけにはいかない。ちゃんと俺が見極めてやらねばならん。少し、過保護かもしれないけれど、弟思いのいい兄だと思いたい。
「ぐがあぁー!」
「きゃー!」
テーマパークに来ている。十月一三日、半年記念日だ。
喧嘩した日、自分なりに考えて謝りのROWをした。
{{ 今日はごめん
七海との時間を大切にしたいし
これからもそばにいてほしい
別に無視したつもりはなくて
ただ今までまともに付き合ったことなくて
だからダメな部分もいっぱいあると思う
そういうのを七海と埋めていきたい
私こそごめんと返信があって、仲直りをした。そして、ふたりとも行きたいと思っていた場所が同じだったため、すんなりと記念日の予定が決まった。
「ねぇ、今度はあれだよ。早くー、パス取らないと」
「よしっ! 走るぜー」
「もう、待ってよー」
ジェットコースター、バイキング、絶叫マシンは最高に楽しい。上から下へ流れていくときの、あの感覚。頭の先から爪の先まで、自分の意識の全部が、空中に飛び出してしまったかのような、何とも言えない興奮。何度乗っても変わらない。
夜はキャラクターたちのパレードがある。何枚撮ったのか忘れるくらい、写真を撮った。夜景モードのおかげで、パレードの輝きと自分達がはっきりと映り、SNSに映え写メと共に投稿する。
閉館ギリギリまでいたのは、初めてだった。時間を忘れるくらい、最後まで楽しかった。
理想と現実は違うかもしれないけれど、俺は、七海のことが好きだし、一緒にいて楽しいし、これ以上望むことなんてあるのかなと思う。
ふたりとも子どものように、笑って叫んで、全力で遊び尽くした。帰りの電車の中では、肩をくっつけ合い寝ていた。
家に着くと、一緒にシャワーを浴びて、そのままベッドイン。
いつもはエッチしなきゃな、という気持ちがどこかにあった。大学生の恋人同士がしないなんておかしい。別に、エッチが嫌いなわけではない。ただ、絶対にしたいかと言われると、毎回はしなくてもいいのかなと、思うところがある。
今日は違う。高揚感が冷めなかったこともあってか、付き合いたてのように、身体の反応がよかった。
ベッドに横になり、腕まくらをする。軽い吐息に右を向く。
————。
一瞬、七海の顔に誰か別の子が映った。
胸が熱くなる。心拍数が上がり、呼吸が乱れそうになる。
なぜだかわからないし、誰かもわからない。けれど、忘れたくないと思わせる感覚があった。
気づかれないように、目を瞑り、紛らすために、増量のための食事を考えた。秋が深まり、ますます、食欲が出てくる。今年中に一〇キロは増やしたい。
最近はすっかり、涼しくなった。昼時は暑いとは言え、さすがに半袖では歩けないし、風が吹くとさすがに、冷たい。ハロウィンも終わり、もうまもなく冬が顔を覗かせているようだ。
今日は人がいないからと、バイトを早番で入った。授業がないから、どっちみちフルで入ろうと思っていたから、ちょうどよかった。しかし、夜は人がいるからと、一七時上がりにされた。
それなら、空いた時間は有効活用しなくてはもったいない。と、バイト先近くのジムに行くことにした。いつも行くジムよりもスペースが広くて、使ったことのないマシンもあるため、早くやりたいとわくわくが止まらない。ただ、今日は早起きしたせいで、プロテインを忘れてきてしまった。有料になるけれど、買うしかない。
ジム前に着くと、声をかけられた。
「えっ?」
「あっ、やっぱりそうだ」
「えっと……」
「千秋、大城千秋だよ」
「あっ! えっ? なんか雰囲気変わった?」
入り口の邪魔にならないところで、少し話をした。
「あっ、こっちが普段かな?」
「こっちが?」
「うん。あたしね、可愛くなりたい願望があってね。それで」
「えっ? 可愛いじゃん。花見のときも桜より、花だったし」
「面白いこと言うね。んー可愛いのかな? 可愛いなら努力のおかげかな?」
「えっ?」
「あっ、別に、子どもの頃太ってたとかじゃないんだけど。アイドルになりたいなーって思ってたときもあって」
「なれるじゃん、絶対」
素直にそう思った。一般人の可愛さというよりかは、オーラがあると言えばいいのか、モデルのように可愛い。
「今はそんなこと思ってないけど。でもね、可愛いは作れるんだよ」
「作る?」
「そう、ジム行ったり、エステ行ったり
、自分磨きするの」
「ちょっと、待った。ジム?」
目の前のジムを指差した。
「そう」
大城さんは、筋肉をデカくするためではなく、スタイルをキープするために、程よい筋肉をつけておこうと、大学生になってからジムに通っているそうだ。花見のときは、ジムに通っていることがバレたくなかったようで、自分の目指したアイドルのようにしようと、頑張っていただけらしい。確かに、思い出してみれば、隣でもたれかかられたとき、触れた感覚が軽やかだった。あのときは何も思わなかったけれど、努力の結果だ。
終わる時間を合わせたわけではなかったけれど、ジムの受付で鉢合わせた。
「おつかれー」
「おつかれさま。すごい上げるんだね」
「まーね。増量したいし」
「へー、そーゆーのかっこいいよね」
「マジか、ありがと」
「あっ、ねぇ、この後予定あるの?」
「今日は何もないよ」
「じゃあ、うち来ない? 近くなんだ。基本、ひとりごはんが多いから。まあ、低脂質な料理ならごちそうできるし」
「うーん、いいよ」
「よかった」
うまかった。カロリーのことをちゃんと考えられたメニューになっていた。しかも、増量したい俺のために、自分とは別の一品も作ってくれた。
お互いトレーニーということもあり、あるある話や、悩みを共有し合えたし、共感できた。そのまま、雰囲気に飲まれるのに時間は掛からなかった。一度きりのアバンチュール。恋愛感情があるわけではないけれど、同じ思いや考え方に対して、心がひとつになったような錯覚が起きてしまった。
七海にまったく不満がないと言ったら嘘になるけれど、浮気したくなるほどの嫌な感情なんてない。
ただ、このときは共通のものに引き寄せられただけだった。
冬も目前、大城さんとの関係は続いていた。ただ、お互い割り切っていたつもりだった、彼氏、彼女がいるんだからと。恋人に対しての埋まらない何かを、ここで埋めようとしているだけなんだと。
でも、そんな繕いなんて、ちょっとした傷がつけば、あっという間に壊れてしまう。
津波に流されて、一瞬で溺れるしかない。
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