恋ごころより特別な ②
職員室のある第一校舎からノンストップで第二校舎まで走って、自分たちの靴箱がある昇降口で足を止めた。トムくんにつられてここまで走ってしまったけれど、私は部活に行かなければならなかった。靴を履き替えずに校舎へ戻ろうとする私を見て、トムくんが「部活?」と聞いてきた。
「あ、うん。遅くなったけどいちおう顔出さないと」
「そっか。俺はもう帰ろうかなぁ、遅刻の理由いちいち聞かれるの面倒だし……あー、でも休んでも明日が面倒くさいな」
「バスケ部は厳しそうだもんね」
「美術部がゆるすぎなんじゃねえの?」
こうして普通に喋っていると、トムくんは決して嫌な人じゃない。勉強もスポーツもよくできるのに、それを鼻にかけたりもしない。何よりも、誰かが困っている時は、文句を言いながらも助けてくれる。口は悪いけど面倒見がいい。そう、普段は「いいひと」なのだ。なのにどうしてトムくんは、私に意地悪をするんだろう。
足を止めて考え込んでしまった私へ合わせるように、トムくんも帰らずに留まっている。黙ったままでしばらく私を見ていた彼は、なあ、と真面目な顔で口を開いた。
「子ネズミ、あのさ」
「なに?」
「今日のことだけど……やりすぎた、ごめん」
「ふぇっ?」
あらたまって頭を下げられ、思わず変な声が出た。今まで一度もこんなことはなかったのだ。明日は大雪が降るのだろうか、でなければ梅雨前線が消滅するのかも――ついそんなことを考えてしまうくらいに、トムくんの素直な謝罪はありえないことだった。
「急にどうしたの? 熱でも出た?」
「子ネズミは俺を何だと思ってんだよ」
「だ、だって」
「いや、まあ……制服を透けさせるとか、俺の中では完全にアウトっていうか、やっちゃいけないことだったからさ。何も考えてなかったんだ、俺が悪かったよ」
頬を赤くして謝るトムくんは、どうやら本当に反省している様子だった。
私だって、まさかトムくんが透ける下着を見たくて水を掛けたとは思っていない。でも、だからといって「それならオッケー」ということにはならない。そもそも水を掛けてくること自体がおかしいんだから。
「ねぇ、なんで私にばっかり意地悪するの?」
「それは……っ」
理由を言いかけたトムくんは、何故かこらえるように口をつぐんでしまう。その様子が「言い辛いことを言おうとしている」ように見えてしまって、問いかけたことを後悔した。理由をきちんと聞けるのならば、それはいいことのはずなのに。今のままではいられなくなる予感と、それを不満に思う自分――思いもよらなかった感情へのとまどいは、私の口も塞いでしまう。
揃って黙り込んでいると、遠くからトムくんを呼ぶ声がした。女の子の声で「みどりー」と名前を叫んでいる。声がした方へ視線を向けると、体育館へと続く渡り廊下から、バスケ部のジャージを着た女の子が歩いてきた。
「碧、また職員室に呼び出されてたんだってー?」
「げっ、
声をかけてきたのは、女子バスケ部の東堂
優美ちゃんは私を見て、一緒だったんだ、と言って笑った。ちょっと気まずい。小学生の頃の優美ちゃんは、トムくんのことが大好きだったから……そして、きっと、過去の話なんかじゃないから。
「やっぱり様子を見に来てよかったー、どうせサボって帰る気だったんでしょ? そんなの許さないんだからね!」
優美ちゃんはためらいもなく、トムくんの腕に抱きついた。そのまま体育館まで引っ張っていくつもりらしい。その光景を見た瞬間、胸の奥がなんだかモヤモヤした。
「お、おいやめろって」
「逃がさなーい! 恵理ちゃんまたね!」
「ま、またね」
「またねじゃねーよ! 東堂、離せって言ってるだろうが!」
トムくんは嫌がりながら、だけど振りほどくことはせず、おとなしく体育館の方へと引っ張られていく。本当は嬉しかったりするのかもしれない。優美ちゃんは私と違ってスタイルがいいし、顔も可愛いし、性格も明るくっていい子だし……嫌な気分になる男の子なんて、きっといないんじゃないかな。
もしも私が同じことをしたら、トムくんはどんな反応をするんだろう。
遠ざかる二人の後ろ姿を見ていたら、なんだか部活に出る気をなくしてしまって、そのまま家へ帰ることにした。
普段通り、家には誰もいなかった。濡れた制服を洗濯機に放り込み、夜中に帰ってくる父親の分まで食事を作り、ひとりぼっちで夕食を済ませ、シャワーを浴びてから自室のベッドへ倒れこむ。
いつも一緒に眠っている、大きな黒猫のぬいぐるみを抱きしめた。その艶やかな黒い毛並みが、なんとなくトムくんの髪を思い出させて、どうしても今日のことを考えてしまう。
明日からの私たちは、もうケンカなんかできない。絶対に親へ迷惑はかけられないから。そして、私はそれを不満に思っている。
どうして不満に思うのか、自分の中に問いかけて、そしてはっきりと気付いてしまった。トムくんとケンカすることを、私は楽しいと思っていた。ケンカをしても嫌い合ってるわけじゃない、そんな自分たちの関係を、どこか特別なものだと思っていた。
私、トムくんのことが、好きなんだ。
もしも子ネズミなんかじゃなければ、トムくんと仲良くできたのかな。優美ちゃんみたいに可愛かったら、好きだと言ってもよかったのかな――つい嫌なことばかり考えてしまって、親友の
胸の奥のモヤモヤが、気持ち悪い。
黒猫をぎゅっと抱きしめて、トムくんのことを考えながら眠りに落ちた。
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