第一章 天才弁護士の孫娘②

 数日後。小夜子は遺言執行の任務を果たすべく、愛車に乗って御子神邸へと赴いた。と言っても一人ではなく、補佐役の葛城一馬も一緒である。

 三つ年上の葛城一馬は坂上事務所のエース的な存在で、能力的には所長をしのぐと言われるほどだ。本来なら小夜子の補佐などやるべき人間ではないのだが、小夜子のあまりに不安そうな様子を見るに見かねた坂上が「それなら葛城くんを補佐につけようか」と提案してくれたので、一も二もなく飛びついた結果の同行である。

 当然のことながら葛城は不機嫌極まりなかったが、小夜子はそ知らぬ顔でひたすら運転に注力した。

 むろん小夜子としても、葛城に迷惑をかけるのは本意ではない。できることなら誰にも迷惑をかけることなく、この世の片隅でひっそりと生きていきたいというのが比良坂小夜子の理想である。

 しかし自分のようなポンコツがこの業界でやっていく以上は、誰かに迷惑をかけざるを得ない。そして誰にかけるべきかといえば、何も知らない顧客よりは、事務所の先輩である葛城の方がまだしも「まし」ではなかろうか。

 ──などと口にしたら葛城を激高させるは必定なので、小夜子は無言のままひたすら車を走らせた。

 信号待ちでバックミラーをちらりと見やれば、葛城の端整な顔が目に映る。つややかな黒髪に涼し気な目元。すっと通った鼻筋。けんにしわを寄せていても、実に絵になる男前だ。法曹目線で評価するなら、「裁判員裁判のときに有利だね!」と太鼓判を押されるタイプの顔立ちである。

 小夜子自身、葛城と別の形で出会っていたら、恋のひとつもしたかもしれない。まあしたところで成就するとは思えないので、何の意味もない仮定だが。

 小夜子が益体もない考えにふけっていると、ふいに葛城が口を開いた。

「お前さぁ、遺言執行って別に初めてじゃないだろ」

「はい。今までに二回ほど」

「じゃあなんで今回そこまでびびってるんだよ」

「だって遺産の額がけた違いじゃないですか」

 帰宅してから公開情報をあさったところ、ミコガミとは国内有数の刃物メーカーで、年間数十億の売り上げがある。なおかつ非上場で、株式の大半は故人が所有していたともなれば、すなわち──お分かりいただけただろうか?

「その遺産となれば、一億や二億じゃききませんよ? しかも息子が三人も! これはもういぬがみ家ばりの泥沼になる奴じゃないですか。名前もなんか似てますし!」

 亡くなった御子神季一郎には、夏彦、あきとうという三人の息子がいるという。妻のはるも存命なので、法定相続の通りなら、原則として遺産の半分は晴絵にいき、残りの半分を三人の息子で均等に分け合うことになる。しかしわざわざ遺言を作るからには、そこに修正を加えるということだろう。

「なにを大げさなことを。そりゃ多少の不平不満は出るかもしれんが、そんなもん法に従って淡々と処理すればいいだけの話だろ」

「そうなんですけど、不安なんですよ。もしなにかやらかしたらと思うと、さすがに規模が大きすぎて……とにかく最初だけ、最初だけついて来ていただければ!」

「最初だけだからな」

 葛城はため息をつくと、ふいにげんそうな顔つきで言った。

「つーかさ、お前ってなんでそんなに庶民臭いの?」

「は?」

 質問の意味が分からずに、小夜子は間抜けな声を発した。

「お前ってあの比良坂貴夜子の孫なんだろ?」

「はい、一応」

「ならお前自身も結構な資産家なんじゃねーの?」

「祖母の遺産のことをおっしゃっているなら、四十坪弱の古い家が一軒と、この車があったきりですよ。現金はほとんどありませんでした」

「なんでまた」

「謎ですね。孫の私にも全く見当がつきません」

 比良坂貴夜子弁護士が生前手にしたはずのばくだいな成功報酬は、一体どこに消えたのか。

 匿名でどこぞに寄付したのか。ギャンブルにでもつぎ込んだのか。あるいは一部で噂されているように、証人を買収するための費用に全て消えたのか。

 そのいずれもあり得るようで、またいずれもあり得ないようにも思われた。

 最後の買収の噂については、孫娘として「おばあちゃんはそんな人じゃありません!」と反論すべきところだが、実際問題、貴夜子がどんな人間だったのか、小夜子にもよく分からない。

 ただ覚えているのは、いつも教え導いてくれた優しい声。優しいまなし。


 ──ほらほら駄目じゃない小夜子ちゃん。

 ──ね? これはこうするものなのよ。

 ──あらまあ小夜子ちゃん、それじゃみんなに笑われてしまうわよ?

 ──ほらね、おばあちゃんの言った通りでしょう?


 小夜子自身の判断や希望はことごとく祖母に修正された。祖母の言葉はいつも説得力があり、その判断は常に正しかった。祖母に従ってさえいれば、なにも心配いらないと思っていた。

 しかし永遠に存在するかと思われた祖母は、小夜子の大学卒業前に突然の事故で命を落とした。そして小夜子は指針を失い、ずっと不安を抱えて迷走している。

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