第一章 天才弁護士の孫娘①

 若手弁護士、比良坂小夜子のもとにがみ家からの依頼が舞い込んできたのは、担当していた離婚事件の処理が一段落し、事務所でゆったりとお茶を楽しんでいたときのことだった。

 離婚は相手方の不貞を理由とするもので、小夜子の仕事はポルノまがいの証拠動画を丹念に見返しては「分かりやすい」場面を選んでプリントアウトし、裁判用に編集するという地獄のような作業がその大半を占めていた。

 時おり「私なにやってんだろう」と我に返りそうになりつつも、ひたすら心を無にして作業を進めたあって、ほぼ依頼者の望み通りの判決を勝ち取ることに成功した。

 離婚は成立したし慰謝料も取れた。依頼者からは感謝されたし、坂上所長にもお褒めの言葉をいただいた。あの葛城にさえ𠮟られなかった。

(良かった。首の皮一枚つながった)

 小夜子は熱いほうじ茶を飲みながら、ほうと満足のため息を漏らした。

 今度失敗したらさすがにまずいと思っていたが、なんとか回避することができた。まあ葛城には「ほとんど自力で証拠を集めてきた依頼者自身の手柄だろ。こんな楽勝案件で敗北できたら逆にすげぇよお前」と言われたが、それにしたって勝ちは勝ちだ。

 こういうのでいい。こういうのがいい。

 華麗な逆転劇なんて、分不相応な夢は目指さない。

 自分の弁護士としての才能には、とうに見切りをつけている。

(今日はお祝いにコンビニで新作デザートを大人買いしようかな。それとも事務所近くのケーキ屋さんで豪遊するのもいいかもしれない。あそこのいちごのホールケーキ、前から気になってたんだよね)

 そんなことを考えながら立ち上がりかけたちょうどそのとき、坂上ユイが小夜子に声をかけてきた。

「比良坂センセイ、父さん……じゃなかった所長が呼んでますよ。なんか新しい依頼の件だって言ってました」

「新しい依頼? なんだろう」

「遺言のなんとかって言ってましたねー」

「遺言のなんとかね。分かった。行ってみるよ」

 所長の娘である坂上ユイ子は大学中退のフリーターだが、数年前から事務所の雑用係を務めている。所長が「これをきっかけに弁護士の仕事に興味を持ってくれたら!」と願っているのは半ば公然の秘密だが、当のユイ子は父親の期待などにもかけず、あくまで金銭目的のアルバイトであることを隠そうともしない。その一貫して我が道を行く姿勢は、いっそすがすがしいほどだ。




 小夜子が所長室に入ると、坂上は分厚い資料から顔を上げた。

「やあ、もう帰るところだったのに、呼び出して悪かったね」

「とんでもありません。それで、お話って何でしょう」

「うん、小夜子ちゃんに仕事の依頼が来てるんだよ」

 坂上はてい様のような福々しい顔に人のさそうな笑みを浮かべて言った。

 ちなみにこの「小夜子ちゃん」という呼び方にセクハラ的な意図はなく、単に小夜子が小学生のころからの知り合いのため、当時の呼び名がそのまま定着しているだけである。

「私にって、つまり私を個人指名しているんですか?」

「うん、比良坂小夜子弁護士をご指名だよ。依頼者の父親が一か月くらい前に亡くなったんだけど、検認で遺言を開いてみたら、ごん執行者に小夜子ちゃんが指定されてたんだって」

 坂上の言う検認とは家庭裁判所による検認手続のことである。

 遺言は公正証書によるものを除いて、まず家庭裁判所で遺言内容を確認してもらう必要があり、これを検認手続という。発見されたままの遺言書を公的機関が確認することで、後日の改ざんを防ぐための制度である。

「その亡くなったお父様はなんとおっしゃるんですか?」

「御子神いちろうさんだよ。うちに連絡してきたのは彼の長男の御子神なつひこさん。季一郎さんはミコガミっていう刃物メーカーの創業者で、業界じゃちょっとした有名人らしい」

 御子神季一郎も御子神夏彦も聞いたことがない名前である。これまで刃物業界の仕事を受けた経験もない。小夜子は嫌な予感を覚えた。

「もしかしてその亡くなった方は、祖母の知り合いなんでしょうか」

「うん。さんが前に季一郎さんの事件を担当したことがあるから、小夜子ちゃんを指名したのもそれでじゃないかな」

「やっぱり……」

 予想通りの返答に、小夜子はがっくりと肩を落とした。

 普段は事務所から回してもらう小さな仕事でちまちまと稼いでいる小夜子だが、時おり名指しでとんでもない大物の依頼が舞い込んでくることがある。その指名理由には決まってひとつの共通点があった。

 天才弁護士、比良坂貴夜子。

 比良坂小夜子の祖母にして、坂上所長の師匠に当たるこの人物は、法曹界では誰知らぬ者もないスーパースターだ。

 民事刑事を問わず自分が「面白い」と思った事件を受けまくり、そのことごとくで勝利する。ついたあだ名が「負け知らず」。生きているころから伝説で、死んだのちは神になった。冗談ではなく、祖母の墓前では時おり見知らぬ弁護士が、かしわを打って必勝祈願するほどだ。

 だから小夜子が法曹や捜査関係者の前で「比良坂」と名乗ると、決まって「ああ、あの比良坂先生の!」という反応を示される。そして当然のようにけいせんぼう、あるいは敵意を浴びせられ、それが次第に失望やちようしようへと変わっていくのを何度経験したことか。

「その案件、お断りしたら駄目でしょうか」

「なんで?」

「なんだかだましているみたいで心苦しいので」

「はは、なに言ってるの。小夜子ちゃんが貴夜子さんの孫なのは純然たる事実でしょ?」

 その通りだが、その通りではない。なんといっても比良坂貴夜子は天才だ。御子神季一郎の事件とやらも、それはもう鮮やかにさばいてみせたに違いない。それと同じ資質を孫の小夜子に期待されても困るのだ。

「別に法廷で戦うような案件じゃないし、そんな気に病まなくてもいいんじゃない? 小夜子ちゃんに何かを期待してるっていうより、単に貴夜子さんにお世話になったから、お礼に仕事を回しただけだと思うよ」

「そうでしょうか」

「そうだよ。それにね、小夜子ちゃんは本当は出来る人なんだから、もっと自信を持って欲しいな。君はなんといってもあの比良坂貴夜子のたった一人の孫なんだからね!」

 坂上はさわやかな笑顔で言い切った。

 坂上所長は小夜子がいつか「真の才能」にかくせいする日が来ると、本気で信じている節がある。尊敬する師匠の孫がポンコツだなんて思いたくない気持ちはよくわかるが、頼むから現実を見てくれと言いたい。しかし坂上が現実を直視する日は、すなわち小夜子が事務所を首になる日だと思うと何も言えない。

 結局半ば押し切られるような形で、小夜子は遺言執行者を務めることに同意させられた。

(まあいいか……)

 事務所からの帰り道。小夜子は愛車を運転しながらひとりごちた。

 いくら大物絡みといえど、しょせんは遺言執行だ。ただ事務処理をきちんとこなせばなんとかなるタイプの案件は、小夜子に向いていると言えなくもない。

(そうだよね。別に誰かと戦うわけじゃないしね)

 助手席には景気づけのために買ったホールケーキが載っている。今日はもうこれ以上悩まずに、家に帰って思う存分甘いケーキにいやされよう。

 小夜子はそう結論付けて家路を急いだ。そのときの小夜子は、まさか自分が物理的な意味で「戦う」羽目になろうとは、まるで思ってもみなかったのである。

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