第5話
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黒々とした、何も反射しない巨大な瞳が眼前にある。長い睫に縁取られて、弱い月明かりすら届かず、視線はおろか考えなど到底検討もつかない。
その虚空のような眼が目の前にあることを悟ったとき、シャシャは心底安堵した。生きているとは勝手なもので、身体の血肉が入れ替わるのと同じように心の内も勝手に入れ替わってしまう。この森に辿り着いた初日に声を聞いただけで、あの時は兎の姿を確認することはできなかった。会話すら儘ならなかった。その悔いは次があるのかという不安とともにシャシャの内にずっと渦巻いていて、あの日に声を聞いて感じたやわらかくあたたかな心情をいつのまにか食い破っていた。
兎の静かな心音が聞こえる。胸の辺りには温もりがあって、そして目の前にはいつも自分が見つめていたあの瞳がある。シャシャは少し頬を寄せて、兎のやわらかい毛皮を感じた。何もかもが完全な姿で存在している。考えうる最善の状態で、世界は調和している。
言いたいことは幾つもあった。そのうちのひとつを声にしようとして、何の音も発せないことにシャシャは気がついた。戸惑い、再度試みるが変わらない。何度かそれを繰り返して、心の中でも言葉にすれば兎は答えてくれるのではないかと思い至る。会いたかった。ここもまた騒がしいな。鸚鵡の話をどう思った。おれはこの先もまっすぐ西に進んでよいものだろうか。兎はただ真っ黒な瞳をしている。何も答えず、ただただ底の見えない穴のような瞳をシャシャに向けている。
不安は再びシャシャの肋骨のうちで騒ぎだし、次第に苛立ったシャシャは鼻先で兎を小突いた。やわらかくあたたかい。鼓動と微かな兎のにおいがして、肉と内臓とともに自分自身を全て委ねる兎がそこにいる。だがやはり何も伝わらない。不安はいまや喉元を締め付けている。じきにシャシャの息の根を止めるだろう。酸素の不足によってちかちかと瞬く視界でシャシャは兎に救いを求めて、求め続けてやがて眼を閉じた。
だが朝は何事もなくやってきた。何の異常もなく、騒がしく輝かしい早朝の森がシャシャを包み込んでいる。シャシャ自身にも変化はなく、ただほんの少し疲れているような気がしただけだった。
鵲は腹を満たして戻ったところらしく、満足げな様子で羽毛を繕っている。狐はいつも通り眠りこけていた。シャシャの目覚めに気がついた鵲は静かに挨拶をしてくる。
「おまえはなぜおれたちによくしてくれるんだ」
「何か不都合なのですか?」
シャシャが眼を細めて回答を促すと、案外すんなりと鵲は口を開いた。
「あなた方はわたしの敵ではないからですよ」
「鸚鵡も蝙蝠も敵ではないだろう」
「いいえ、敵です。似ているけどもちょっと違うのです、我々は」
「鸚鵡もか」
「話すのも恥ずかしいことなのですが」
曰く、鸚鵡は先の物語の中で省いたことがある。それは鵲と鴉の駆逐であった。蝙蝠に似て飛ぶ黒いものというだけで彼らもまた森から追い出されたが、蝙蝠にしてみれば彼らは歴とした鳥であって仲間ではない。そのため川を越えても居場所はなく、彼らは旅に出た。鴉も鵲もうまく他所で暮らして、今となってはこの森のことを思い出すこともない。
「わたし自身も同じでした。この森のことは雛の頃から話には聞いていたのですが、縁も所縁もない東の国で人とともに暮らしていました。あの国は不思議なところで、鴉は別に好かれていないのに鵲は大事にされていたんです。昔はわたしにも名前があったんですよ」
気恥ずかしそうに笑った鵲の背は緑色の見事な光沢に包まれ、歌うような抑揚豊かな声音とともに人に持て囃されたことを説明しようとしている。その後、若い鳥にはよくある好奇心の導きによって この森へ辿り着いたという。幸か不幸かその頃にその東の国は飛蝗の群れに襲われたと風の噂に聞いた鵲は、もはや荒野と化した故郷に帰る期も逃し、以来ここに棲んでいる。
「でも、もしかしたらわたしは戻った方が良かったのかもしれません。狭い籠の中でもわたしは尊重されていました。名もない、というのはどういうことなのかわたしは知りませんでした。あの国では、特にわたしのように名前を持つものは、豊かで何一つ脅かされるものはなかった。代わりに空飛ぶ鳥を見上げるだけでそんな快適な暮らしを手に入れることができていたのです」
シャシャにも、心当たりはある。安全な寝床と飢えのない暮らしはずっと微睡んでいるようなものだった。縄張りはかつてシャシャの森で尾なし猿と呼んでいた生き物の巣のなかだけで、それは今から考えてみれば信じられないほど狭苦しい空間でもあったが、何にも恐れることはなく丁重に扱われてもいた。もう顔も匂いも思い出せないきょうだいたちは、きっと今でもあの暖かい寝床で適度な食事を与えられていることだろう。
「愚かなわたしはたまたま手に入れた自由を、戦利品のように感じたのです。日々の糧を得ることはそれなりに苦しくとも、当時はわたしの翼が持つ力に眼が眩んでいました。だからわたしは折角与えられていた名前を捨ててまで、取るに足らない自由なんてものを掴んでしまったのです」
水面で魚が跳ねる。遠くに鳥どもの歌う声が響いている。鵲は翼を畳んだ。
「ここへ来て、やっとわかりました。名前を与えられ何かに囲われて生きるということは、平穏な暮らしを手に入れるということだけを意味しているのではないのです。何かに縛り付けられる不自由を受け入れるというだけでもなかったのです。それは、ひとつの独立した存在として敬意を受けるということでもあるのです。他と区別して、わたしをわたしとして、わたしの有り様や行いによって評価を得るということなのです」
「おまえは、昔何と呼ばれていた」
「ビーユーと呼ばれていました」
「おれはシャシャと名付けられた」
「知っていますよ」
「そうか」
「シャシャ、あなた方の案内をしようと思ったのは、あなた方がわたしを黒く飛ぶものと思わなかったからです。わたしはここの他の鳥のように色鮮やかではありませんが、あなた方はわたしを見下さなかった。蝙蝠のようにあなた方により近い存在ではないのに、おもねるように求めなかった。だからあなた方には、かつて尊重されていた時にしていたように、尊重を返したいのです」
いつのまにか太陽はその本来の力を取り戻したように遺憾なく光を放ち、水面はそれに抗うようにして光を反射している。シャシャはビーユーとともに狐を叩き起こすと、前日に訪れた辺りまで歩を進めると宣言した。今度は鵲も着いてくるという。狐は不思議そうな様子を見せたが、口を挟もうとはしなかった。
だが森は相変わらず沈黙を守っている。生き物たちは皆それぞれの命と権利を確保するために全力を注ぎ、シャシャたちはその欠片ほどの注意も得ることはできなかった。同様に蝙蝠たちも姿を完璧に隠したまま、本当はもうこの世界中のどこにも蝙蝠なんて生き物はいないのではないかと疑われるほどであった。
「この辺りまで来れば、いつもなら向こうから来ますのに」
鵲も首を頻りに捻るばかりで、よい案もありそうにない。狐もシャシャもそれは同じであった。
「死に絶えちゃったんじゃないかい?」
「群れひとつが突然にですか。それも飛ぶものの群れが?」
「もしかしたら本当にあるかもしれないよ。ぼくも最近ひとつの地域でひとつの生き物が滅んだ瞬間に出会ったから。もっとも、あれは大きくて美しいもっと目立つものだったけど、蝙蝠よりも遥かにしっかり存在しているようにぼくは感じてた。それでもいなくなったんだから」
日暮れは前日よりも足早にやってきたように、少なくともシャシャには感じられた。彼方では梟の声も響いているようだが、身辺では木の葉の鳴る音が時々微かにする以外の何の気配もない。徐々に暮れゆく紫の空のもとで、刻一刻と生き物たちが死んでいくような暗闇がシャシャたちに近付いている。
待ち望んだ生き物は、その虚無の奥から煌々と輝きながら現れた。
純白の翼を持った痩せこけた小振りな蝙蝠であった。薄茶でも灰でもなく、光そのもののように白いその生き物は、動きだけは立派に蝙蝠のそれであった。血液がそのまま凝固した色の瞳は真っ直ぐに鵲に注がれており、あるかなしかの羽音を纏ってシャシャたちの直ぐ側に張り出した細い枝に着地する。夕陽を浴びる辺りは炎の色に輝き、暗闇に沈む辺りは内側から発光するように白い。逆さにシャシャたちを睥睨するばかりで口を開くことはなく、ただじっとそれぞれを見つめている。
口先三寸の狐も、闊達な鵲も、何も言わない。無口なシャシャは言うまでもない。各々が驚きのあまり沈黙を守り、動揺が治まってもなお期を逸したせいで口を開けずにいる。
「こんばんは。よい夜ですね」
シャシャの少し後ろで狐が声を上げたのは、いい加減双方が見つめあった末のことだった。狐は夕陽ももう浴びていないのに場違いにその毛並みを赤々とさせて、やっぱり場違いに朗らかな挨拶を口にする。仲のよい同族の、年嵩のものに言うような調子であった。好意と尊敬と親しみをありったけ詰め込んだ挨拶は、だが宙に浮いて受け取るものがない。
これでは流石に気まずかろうとビーユーとシャシャが顔を見合わせてどちらが口を開くか思案していると、またもや狐が満面の笑みで続ける。
「いやあ、突然お邪魔してしまって本当に申し訳ないことをしました。驚かれましたでしょう、こんな見慣れない取り合わせの奴らががさごそやってきたりして。なかなかお目にかかれないのも当然です。驚かせてしまって面目ありません。この山猫にはちょっとばかり退っ引きならない事情がありまして、ぜひお話を伺いたいと思って、勝手ながら訪問させていただいた次第なのです。もしお許しいただけるなら、ほんの少しあなた方のご存知のことをお教えいただきたいのですが、いかがでしょう?もちろん我々にできることであればあなた方に何かしらお礼をしたく思ってもおります。それから」
狐は喋りながらそろそろとシャシャの横に、甚だ自然にやってくる。だが反対にビーユーは恐ろしく静かに後退している。白い蝙蝠は微動だにしない。狐はなおも喋り続けて、その後ろで尾をシャシャの背に叩きつけて何か言えと促している。
「それにしても本当に素晴らしい夜ですね。これほど心地好く風が流れて星が瞬き、月も煌々と照る夜はいつぶりでしょうか。何しろあなたに出会えたものだから、一生分の幸運を」
「おい」
シャシャとしては、努めて好意的に言った。これでも狐を見習って優しげな声を上げたつもりだった。だが地鳴りのような低い唸りに似て、シャシャの声はシャシャ自身も驚くような威圧的な響きをたてた。横では狐が眼を剥いている。後方で嘴を鳴らす弱々しい音が聞こえた。
「おまえたち蝙蝠に伝わる王についての話が聞きたい」
半透明の赤い目玉がぼんやりとこちらに向けられている。それはシャシャを見ているようでもあるが、他の何かを見つめているようでもあり、どこもみていないようでもある。蝙蝠は何も言わない。
「生き物たち全ての王と呼ばれるものの話だ。伝え聞いてはいないか」
狐に一度大きく尾で叩かれたが、それでもこの友は何も言わなかった。それぞれ何も音をたてず、ただ時折葉が擦れ合う。シャシャはじっと蝙蝠を見つめた。
「王ならもうここへは来ない」
「なんだって?」
応じたのはビーユーだった。彼はどこまで後退していたものか、低く滑空してシャシャと狐に並ぶ位置へ出てくると、もう一度声を上げる。
「どういうことだ。あなた方も待ちわびていたのだろう」
「王はもう来ない」
白く発光する蝙蝠は月の弱い光の中でも自ずから輝き、鵲は黒く沈み混んでいる。動きに合わせて金属のような光沢が稀に煌めいた。この奇妙な対比はそれぞれの王に対しての態度の違いもあからさまにした。鵲は日中の彼とは異なりまるでこの物語の当事者でもあるかのように動揺している。彼はあの森でのシャシャと同じく、集団の埒外にあるように振る舞っていたにも関わらず、焦りを露に声を張り上げた。
「説明してくれ。あなた方は何をしたんだ」
白い蝙蝠は卑屈な笑顔を作ると、勿体ぶるようにゆっくりと口を開く。初めは真っ赤な口腔が覗き見え、それから黄金の花弁がどろりと溢れ落ちた。唾液に汚れて重たくなったそれは、蝙蝠の止まる枝の下方に糸を引きながら落下し、ぼとりと音をたてた。
「食ってやった」
「それは何だ」
「鍵だったものだ。鳥どもは忘れたか?王が森へ残していったものは香木と鍵だった。王は鍵を目印にして戻ってくると言い残した。蝙蝠の持つ黄金の薔薇が鍵だった」
シャシャが鵲を見やると、鵲は横に首を振っている。おそらく鸚鵡も知らなかったのだろう。それともこの蝙蝠が口から出任せを言っているのだろうか。
「なぜ食った」
「わたしはもうじき死ぬからだ」
卑屈な顔には、見覚えがあった。それは群れから追い出される寸前の若い狼の顔、爪弾きにされて囮に使われた鹿の顔、シャシャに獲物を分け与えてもらおうとその場しのぎのおべっかを使ういとこたちの顔だった。
「鳥も蝙蝠もあまりにも愚かだった。下らない救いを信じてはそれを排斥と自己弁護の道具にして、何かを追いやろうと躍起になっている。そしてわたしは追いやられるもののひとつだった。半端もののおまえたちにはわかるだろう?本来の住処を離れ本分とは異なるものに命を捧げるおまえたちはわかるだろう?住処に安住できなかったおまえたち、疎外される側のおまえたちには」
空気の漏れる音が、蝙蝠の声の後ろに隠れている。口を大きく横に開けて蝙蝠は笑っている。媚びねば生きられないものの笑い、自分の身を食い破って生きるものの笑いが発光している。
赤い豊かな毛並みが蠢いたのは一瞬だった。地を蹴る僅かな気配がした後、輝く亡霊が消え、真っ赤な狐がそれを咥えて黄金の花弁を踏みつける。後から骨の砕ける音が二度三度響いた。
「シャシャ、どうしたのですか」
「狐が我慢できなかった」
狐はそれを食いきることもなく投げ捨てると、無表情に口の辺りを拭った。数度大きく呼吸をすると、顔をしかめて向き直る。
「つまり、この森にはもう用はないってことかな?」
夜目の効かない鵲を背に乗せ、川際へと戻った頃にはすでに月は高くなっていた。倦怠が皆を包んで、妙に冴えてしまった頭だけが浮遊するようにそれぞれ眠りに落ちるための準備をする。ビーユーには過度な負担だったようで、地に降ろすとすでにほとんど動かない。
巨大な月が木陰を駆逐するように覆い被さり、その陰に白い蝙蝠がちらつくようだった。シャシャは落ち着かない気持ちで、その陰を追う。半端ものと言われたことは、さして腹立たしくは感じなかった。かつてあれほど受け入れ難く聞こえた言葉であったが、兎もまた同じ言葉を口にしたことを思い出したからであった。寂しい半端ものであることは、もうそれほどシャシャの身の内を抉ることではない。あの蝙蝠が身の内に卑屈で浅ましい臓腑をしまい込んで、なお身の内から輝くことの方が、シャシャには不思議でならなかった。
「ぼくはきみが好きだよ」
「そうか」
「彼女の子どもたちと遊ぶことがぼくの夢だった」
「そうか」
「今はきみの願いが叶うことがぼくの夢なんだ」
「きっともうすぐだろう」
「明日からはまた進もう」
「そうだな」
「きみが好きだよ」
兎は現れなかった。夜が明け、太陽が再び息を吹き返すまでシャシャは待ちわびた。
「わたしも森を離れようと思います」
夜明けと共にビーユーは狐とシャシャを起こすとこう言い放った。
朝日の中ではいっそう磨かれた鉱物のように輝く体躯を繕いながら、少し気恥ずかしいような様子をしている。シャシャはただ頷き、狐もそっけない返答をした。それでも満足そうにしている鵲の背にはやはり幾つかの瑕疵がある。
「それではお元気で。もしまたお会いしましたら、土産話をお聞かせください」
シャシャと狐も直ぐに西へと歩を進めた。
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