第2話
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春はゆっくりとやって来た。
そこかしこで非常に小さな白や黄色の花が薄くなった雪を破って表れ、虫も獣も皆がその様に歓喜の声を上げた。何より陽射しは如実に季節の移り変わりを示す。日に日に太陽はその力を増して、まるで本当に蘇生しようとしているかのようだった。
シャシャは寝床の奥で丸まったまま、狂乱する森の様をただ眺めていた。失ったものに見切りを付けられず、己の飢えにも気が付かないままただ生きている。
己の不運を受け止められないものは、しばしば暴力的な様相を示すことがある。この時、シャシャの中でも同じことが起きようとしていた。シャシャの渦巻き停滞する思考の中では、自分ひとりの不運であることが、本来であれば世界中に充満してるはずのものであるかのように錯覚し始めていた。なぜ死んだ兎は生き返らないのに森は再生を始めているのだろうか。なぜ理不尽に己のものを奪われた自分の悲哀は尽きないのにそれを置き去りにして明るさと暖かさが満ちようとしているのだろうか。兎が返らないのであれば、春も来なくてよい。世界中のすべてが死に絶えたまま雪に埋もれて滅べばよい。
自己防衛のひとつとして、シャシャは眼に映るすべてのものから半身をもぎ取って己と同じ欠けた存在にしてやろうとも考えた。己だけが欠けているから我慢ならないのであって、何もかもが欠けた存在となれば溜飲も下がろう。もしかしたら、シャシャが半身をもぎ取ってやる相手の中には兎を食い殺したものもいるかもしれない。
このような妄執に捕らわれたシャシャがいつまでも寝床でぐずついていたのは、ただ力が入らなかったからに過ぎない。兎を捜索するために駆けずり回ったあげく飲まず食わずで倒れ伏していたせいで、シャシャは腹の内とは裏腹に四肢に全く力が入らずにただ呆けていることしかできなかった。
昼は命の喜びに満ちていく森に憎悪を燃やし、夜は兎の幻覚を追い求めてひたすら虚空を見つめた。
初めてともに過ごす春に兎が歓喜している様を、シャシャはありありと思い浮かべる。幻影の兎もまた見慣れた黒い瞳をしており、シャシャの眼前で微かに鼻をひつくかせるのであった。
「ねえシャシャ、もう旅に出てもよい頃でしょうか」
「いや、まだ力が入らない。旅にはすぐには出れそうにないな」
「そうですか。自分の名前を持てることが嬉しくて、つい気が急いてしまいますね」
「おまえはおれをおいて死んでしまったから、本当はもう名前をつける義理はないが」
「そんなことを言わないでください。わたしはずっと待っていたのに、シャシャが遅かったのですよ」
「わかっている。おまえの名前はちゃんとつけるよ」
兎は不満げな様子でシャシャの首もとに頭を擦りつける。シャシャはその小刻みな心音がなんとも懐かしく、けれどもまた不安で、逃すまいとして脚で兎を押さえつけた。
「おまえがおれを裏切ったとしても、おれはおまえを裏切らない。どんな手酷いことをおれにしたとしても、かならずおまえだけは許そう」
「わたしはいつだってシャシャの味方です」
不思議なことに、兎の幻影は日を追う毎に鮮明になった。初めのうちは感じられなかった拍動や日溜まりのようなにおいも、ほのかな体温さえもシャシャには現実と区別が付かない。
そして雪がすっかり姿を消す頃、兎は唐突にシャシャに言った。
「星が落ちますよ」
「星?」
「鹿の長老が言っていたじゃありませんか。ほら、見てください」
シャシャの脚の下からもぞもぞと這い出すと、兎はねぐらの外へとシャシャを誘った。温もりを追いかけた先では、確かに星が落ちていた。
月は見えない。動かない星をすり抜けるようにして、その暗い空の彼方を星たちは尾を引いて落ち、落ちたと思ったら消えてゆく。こちらで消えるとあちらで尾を引く。光の筋はからかうように、広がる夜の中を駆けて駆けてすべて西へと姿を消した。
シャシャが呆然と見つめる先で星たちはしばらく落ち続けて、やがて微動だにしない星だけが残った。兎はいつの間にか消えている。そのことでやっとシャシャは朝が近いことを悟った。そして自分がいよいよこの森を出なければならないことも悟った。
それからは早かった。シャシャは、まだ明けきらぬ夜を追いかけるようにしてその脚で西へと進んだ。空腹であることはいまだシャシャを苛むが、約束通り西へ向かえば兎がまた待っているという確信が脚を動かす。力の入りきらない四肢でも、シャシャはこの時何も不足を感じなかった。
西の外れに至る頃には太陽が姿を現していた。そしてその太陽に明々と照らされて、かつてシャシャと兎に予言を与えたあの老いた鹿が立っていた。あの日は霧の中で多くの係累を従えていた彼がたったひとりで立つ姿はそれはそれで異様に感じられる。シャシャは一瞥のみで通り過ぎようとしたが、鹿の朗々と響く声が引き留めた。
「腑抜けたと聞いたがゆくことにしたのか」
「あなたの言っていた時が来たのですから」
「だがもう名付ける相手はいなくなったはずだ。おまえは何のために王の元へゆくのだ」
「鹿の主にもわからないことは多いものなのですね。約束を守るためにゆくのですよ」
「そうか。わたしにはもう何も見えない。星たちが王の元へ行った様もわたしには見えなかった。もはや鹿たちを率いる力もない」
シャシャが鹿の長老を見やると、あの時見たものとは全く違う、不思議な輝きに満ちた瞳が待っていた。きっとこの鹿はもう長くないとわかっていたから、この場所で待っていたのだろう。シャシャはそのことを理解すると、草を食む群の生き物は何と憐れなことかと考えた。彼は他の誰もなし得なかったほど長い間群を守り率いてきて、そして今群を離れてひっそりと死んでいこうとしている。
「鹿の長老、王の元へ向かいたければ連れて行きましょう」
何も言わずにただ食い殺してもよかった。だがシャシャは、この名もない統率者に対して敬意を払うべきだろうと感じ、そう投げ掛けてみた。今までそのように考えたことはない。群のせいで手が出しにくく、また無闇に敵を増やす必要もないから下手には出ていたが、それだけだった。本心ではただの巨躯の鹿であると感じていたのである。きっと多くの肉食がそうだったろう。
「連れていきなさい」
彼の肉は、あの日あれほど神秘的な犯しがたさを湛えた生き物だった思えないほど凡庸だった。それでも長老の血肉にはシャシャを温め、またしばらく生き抜くために十分な栄養が残っており、満腹になることでシャシャは神秘的ではないにせよ精神的な力を得ることも出来た。そして臓腑を失った彼の瞳は、やっぱり最後の兎の瞳と同じものでもあった。
それからシャシャは、予定通りひたすら西へと進んだ。数日は平原を歩み、その間も食糧に困ることはなく、適当なねぐらを見つけては夜をやり過ごす。自分でも不可思議なほど孤独は感じなかった。長く兎と過ごした場所を離れたことで少しばかり気分が変わったこともある。出立の高揚感も一助ではあったろう。だが何よりも、兎を取り戻したような、あるいはこれから取り戻す予感のようなものを抱いてもいた。森を出る間際に見た瞳が、まるで兎のものであったかのような錯覚がシャシャに気力を与えていたのである。
頭ではあれが老いた鹿のものであって、本来シャシャに約束されていた兎のものではなかったのは十分解っている。だがシャシャは、森の誰よりも長く命を保っていた草食を、兎がまるで己の代わりもたらしてくれたかのような感覚を持った。もちろんそれは一時的なもので、兎の名前を呼ぶことができるようになったら、本当にシャシャの内側に兎が宿ってくれるのではないか、そんな益体もない期待がどうしてもシャシャを蝕むのであった。
夜毎にシャシャは、見えない兎に語りかけた。その日の道程、今後の行き先、植生の変化について、兎に語ろうと呼びかけた。兎はだが星の落ちる夜以降全く姿を見せなかった。夜空の有り様に兎や鹿長老の瞳が思い起こされたが、それもただの想起にしかならない。そうか、兎はもっと先にいるのか。あの日追いかけて見つからなかったように、きっとまだ先の地にいるはずだ。今度こそ間に合わねば。シャシャはそう考え、明日の夜こそは兎のいる場所へ行き着けるようにまた懸命に進もうと心に決めて眠る日を繰り返すのだった。
シャシャの先行きに明らかな変化が出たのは、突然のことであった。岩肌の露出する地に行き着いたのである。草花の姿は控えめにしか見れず、森の下生えを踏みしめてきたシャシャの脚には適さぬ地形が広がっている。切り立った崖がその代わりシャシャの道に広がっている。それから丸一日は、崖の攻略を余儀なくされた。脚こそ踏み外さなかったものの、それでも神経を使ったせいで急激にシャシャの身体に疲労感が満ちていく。
道標を持たないせいで、ただひたすらに西へ進むしかない。迷いなく歩を進めることができることには満足しているが、一方で迂回もできず最短であるとも言いきれないことがシャシャには気がかりでもあった。
岩場であろうと森であろうと夜はいつでもやってきて、地形が変わろうともシャシャがひとりきりであることは変わらなかった。その夜も適当なねぐらを見繕って休もうとしたシャシャには、誰の声も聞こえないはずだった。
「おや、久しぶりのお客さんのようだね」
シャシャが脚を踏み入れた穴蔵の奥からは、地鳴りのように低いがひどく掠れた声が響いてきた。明らかに捕食する側の、そしておそらくは己よりも体躯の大きいものの声にシャシャは身を固くする。その姿が見えているものか、あるいは空気の動きで感じたものかは定かではないが、その大きな獣はまた語りかける。
「恐れることはないよ、若い遠縁のもの。わたしはもうおまえほど俊敏ではない。久々に新しいにおいに触れて嬉しいもので驚かせたね、すまなかった」
「おまえは何だ。おれの故郷にはいなかった類いのようだが」
「わたしはこの岩場で雪に混じって生きるものだ。近くで姿を見せよう」
そういうと微かな足元とともに姿を現したのは、淡灰色の巨躯を重たげに揺らめかせる獣であった。シャシャよりも身体一つ分以上は大きく、異様に長い尾をしならせている。なるほど姿の様子はシャシャの遠縁のようにも見える。斑に黒い模様の入る毛皮は確かにこの地の環境に適しているようではあるが、よくよく見ると老いと疲弊がその毛皮を覆い尽くしつつあった。
「わたしは雪豹という。もはや年老いて死を待つ身ではあるがね」
「おれは森から来たシャシャだ。生きるもの全ての王を探している」
死につつある雪豹は、シャシャの言葉に怪訝そうな表情をした。シャシャは森から出てきた経緯を説明し何か知っていることはないかと訊ねたが、雪豹は明確な答えは持っていないようで少し考え込む様子を見せただけで何も言わない。
それからシャシャと雪豹は、しばらく己の住処について話し合った。岩場にはそれほど多くの種類の生物はいないようであったが、シャシャが主食とする兎はいるらしい。雪豹はどうやらシャシャが混血であることにも気が付いていそうだが、何も言わない。生き抜く力を持った一個の獣として接してくれる無関心と配慮に、シャシャは深く感謝した。早く先に進むべきではあるが、もうしばらくはこの雪豹と過ごしてこの地に慣れてみてもよいだろうと思った。
次の朝になって、急に雪豹は口を開いた。
「わたしの友に聞いてみよう」
「友と言うのはやはり雪豹なのか」
「彼は狐だ。まだ年若く好奇心に任せてあちこち出掛けているようだから、もしかするとおまえの役に立つかもしれない」
雪豹はふらふらと穴蔵を出ていくと姿を消した。シャシャはその間に狩りを行い、寝床を貸し与えてくれた雪豹にも手頃な兎を持ち帰って、その帰りを待った。
夜の半ばに差し掛かった頃に、家主は帰って来た。幾分か疲れた様子であるが、出たときと同じようにまたふらふらと歩いてくる。後ろには濃い赤毛の小柄な狐を伴っている。
「この狐はお調子ものではあるが抜け目はない」
シャシャは、狐とは皆そうだろうと思った。だがありがたくはある。事情の説明と王について知っていることはないかの確認をすると、狐は爛々と目を見開いて、反対にシャシャに質問をした。
「その王とはどのような生き物なんだ、王というからには大きいものなのだろうか。地を這うものなのか、空を飛ぶものなのか、水に暮らすものなのか。きみはその鹿の長老から何か聞かなかったか?」
「聞いていない。だから探すのに難儀している」
「では西というのもかなり抽象的だが、どれほど西なのだろう。陸地の西の果てまで行き着いてもなお見つからなければ海を渡らねばならないな。きみはあてはあるのか?海というのも、ぼくはまだ見てはいないが陸と同様広大だと聞いている。しかしまた海の西の果てまで行かねばならないとしたら」
「狐」
「いやいや、というか果てなんてものは」
「狐。おれは果てを踏むことが目的なのではないし、王は果てにいるとも決まってはいない。もちろん果てまで行かねばならなければ何とか手だてを探すしかないが、それは今考えることではない」
「とにかくおまえはシャシャの話には心当たりはないのだね?」
シャシャと雪豹の双方から話を切られた狐はやや面食らった様子であったが、さして気にもしないようで、小さく尾を振った。
「王については初めて聞いたが、楽園の話は知っているよ」
「なんだ、それは」
「西の果てにあるそうだ。ぼくにこれを教えてくれたのは羊だったが、その群れは西の楽園を目指して旅をしていた。なんでも、よいものが何もかもあるらしい」
狐は一度そこでうつむき、話したいような話したくないような、そわそわとした様子をした。しばらく見守っていると耳を下げた狐は雪豹に向かってしばらく泊めてくれるように頼むと、ひとりでさっさと丸まってしまう。今度はシャシャと雪豹が面食らう番だった。
「とにかく、続きは明日にしよう。ぼくも雪豹も疲れている」
他の二匹が寝静まってしまうと、シャシャの耳には微かな心音が聞こえるようだった。久々に感じる、懐かしい兎の気配だった。目を開くと遠退いてしまうような気もしたが、どうしても兎の存在を確かめたいシャシャは、耳を様々な方向に向けて探ってみる。左の方、すぐ側に兎がいるようだった。
「シャシャ、随分と遠くまできましたね」
「おまえが随分隠れていたものだから」
小さく笑うような息遣いが聞こえる。目を開けてもよいかと訊ねると兎は頷いた。シャシャに身を寄せる兎は、変わらず真っ黒な瞳をしていた。何か話したいようでもあるが、シャシャには言葉が見つからない。声を出して兎の心音を聞き逃すのも惜しいように思える。ただ心音と太陽のような匂いと、仄かな温かさを感じていられればそれで十分のように感じる。
「それにしても騒がしい狐で、シャシャがいつ怒ってしまうものかとそわそわしていました」
「あれくらいでは怒らない」
「そうでしょうか?シャシャはきっと自分で思っているほど我慢強くはありませんよ」
兎の耳は小刻みに動き、同じ寝床の他の二匹の様子を伺っているようにも見えた。夜空よりも黒い瞳は少し伏せられている。何かを見つめているようで、何も見ようとしていないようで、それでもシャシャはもうその視線に不安はなかった。
「シャシャ、もっと西へ行かねばなりません。道標が必要です。あの狐が出会ったという羊の群を追ってみるのも悪くないかも知れませんね」
夜が明けきってしまうと、岩場の寒さがシャシャの鼻先に迫る。森とは異なる乾燥した冷気に、過ぎ去ったはずの冬がまたも忍び寄ってきたかのような不快な想像が沸き起こる。微睡んでいるうちに姿を消してしまった兎の不在もこの寒さに一役買っていることにシャシャは寂しさを感じた。だが一方で、また新しい地に辿り着き王に近付くことができれば、その度兎と会うことができるのではないかという期待が身体中に力を与えるようでもあった。
期待というものは何一つ根拠がなくとも沸き上がる。厄介な病のひとつで、体力を徐々に奪う。このことはシャシャの骨身に染みていたはずだった。母やきょうだいたちと同じように暖かく頑丈な家で暮らしていけると期待していたし、力さえ付けば混ざりものと呼ばれることもなくなると期待したが、そのどちらも叶わなかった。
やがて期待はシャシャにとって、恐怖のひとつの側面でしかなくなった。期待は少なくともそれ自体と同じ大きさのものを奪い消えていく。それほど長くはない生の中でもシャシャは十分にこのことを学んでいる。それにも関わらず、兎については二度も破れたはずの期待をまたもや持ってしまっていた。己の滑稽さを虚しく情けなく感じながら、朝日の反射する冷たい岩場をシャシャは踏みしめた。
明るいところで見る狐は、いっそう赤々とした毛並みをしていた。だが栄養の不足が見てとれる。見事な赤毛であるだけに疲弊の痕跡が鮮明に浮き上がっている。
「雪豹はもう長くはない」
狐は何の脈絡もなしにシャシャに言い放つ。考えてみたことはなかったが、言われてみればおかしな話ではない。満足に狩りのできる状態ではなさそうだったし、それもしばらく続いているように見えた。
「そうか」
「ぼくは彼女の最期まで側にいたい」
「そうか」
「ぼくは、昔から彼女がいなくなった後には楽園を探したいと思っていた。君が行くのであれば同行したい。待てるか」
「待たない。おれには関係がない話だ。だがおれは真っ直ぐに西へ向かうから、追ってくるといい」
シャシャはできる限り素っ気なく言った。少なくとも自分よりも王や楽園に関係がありそうなことを知っている狐の存在は邪魔ではないが、狐を頼る素振りは見せたくはない。どこまで同行するかも、この狐の本性もまだわからない。次の土地で兎に会うことを期待するシャシャは、そもそもどうしたって狐と雪豹の別れをともに惜しんでやることはできなかった。
「わかった」
シャシャがこの地を離れたのはそれから二日後のことだった。先を急ぐ心持ちの強いシャシャが二日も雪豹の元に留まったのは、雪豹の態度が心地よかったことと、狐の道案内を受けるためであった。
生まれた地では気が付けば不審な目を向けられていた。森では混ざりものと蔑まれ、己の爪で死んでいく草食のものでさえ最期まで自分を馬鹿にしているような錯覚に悩んだこともある。初めてシャシャを受け入れたのは兎であった。鹿の主も自分を蔑ろにすることはなかったが、そのどちらも既に死んでいった。雪豹はシャシャにとっては同じ狩りをするもので初めて己を受け止めてくれた存在でもある。
これまで無関心には敵意と疎外感と感じているばかりであったが、雪豹の無関心は居心地がよかった。彼女はシャシャに纏わりつく様々な事情に対して無関心であるだけで、決してシャシャ自身に無関心な訳ではなかったからである。
雪豹はその二日の間、シャシャの森の話を聞きたがり、岩場の暮らしについて語り、そしてかつて共に生きていた番だったものの昔話をしてくれた。
「大きく強い獣だった」
「お前よりもか」
「そりゃそうだ」
雪豹はその時心底おもしろいものに出会ったように朗らかに声をあげた。内心では少しばかり恥ずかしいように感じながら、シャシャはじっと雪豹の声に耳を傾ける。月明かりの中では、その声は地の底から届くかのように響いた。
「わたしは我らの中ではそれほど大きくはない。だが彼はこの辺りの雪豹の中では非常に大きく、力強いものだった。本来わたしたちは縄張りが広く頻繁に同種には会わないが、彼とは若い頃にすんなり出会った。わたしたちはそのことに何か特別なものを感じていた」
「はっきりしないな」
「おまえとわたしとでは、感じる孤独の種類が違ったのだろう。聞く限りおまえの暮らしの中では自分がどこにもいない孤独はあったようだが、わたしは自分がどこにいるかわからない孤独を抱いていた」
その通りシャシャの孤独はいつも疎外感であった。見渡す限りどこにも自分の住処がなく、自分がいるべきだと思った場所にはいつも他の何者かが居座っていた。誰もシャシャを肯定しないし必要としない。他者の目はいつだって自分以外の誰かに向いている。
「岩と雪と下草に囲まれて口を閉ざして暮らしているとね、自分がどこにいるかわからなくなるんだ。そのうち自分が本当にいるのかわからなくなる。だから彼と出会った時に、わたしは伴侶を見つけるのと同時に自分を見つけた気になった」
彼女が伴侶としていたものは随分と口数の多いもののようで、小さな思い出話を雪豹は思い起こすままぽろぽろと語ってくれた。その多くは取るに足らないものであったが、シャシャはその話をする雪豹の穏やかな様に充足感を感じた。きっとシャシャが兎の話をしようとしても、こんな語り口になるだろう。意味はないが大事なものに対しての慈しみが洞窟には満ちていた。
「あいつは好奇心が強くてね、そのせいで脚に怪我をした。普段行かない場所に行ったせいだった。それからは早かったよ。痛みを耐える姿を見るとわたしまで身体が痛むようだったが、早く死ねてよかったのかもしれない」
「そうか」
「出歩くのが好きだったあいつがどこにも行けないことが憐れだったんだ。わたしも側を離れがたくて、あいつが危なくなってからはずっとここで共にいた。食べるものを獲ってきてやることもできたが、わたしもあいつもそうして誤魔化すよりも共に過ごすことを選んだ」
雪豹はもはやこのことに何も感じていないようだった。未だに兎の腸を抜き取られた姿を思い出すと、シャシャの身体は怒りに震える。そのシャシャから見ると奇異な様子であるが、時を経たもの、死を目前にしたものの身には、まだシャシャの知らないものが宿るものなのだろうか。
白く濁りつつあるが強く光を反射する黄金色の瞳はシャシャに向けられているが何も映してはいなかった。彼女は遠い記憶を頼りにして、自然に無理やり生かされてきた。彼女の活力に満ちた四肢と優秀な筋力は彼女を生かしたのと同じ自然が、彼女を死に至らしめるのをずっと待っていたように、今は脱力して地に伏している。思出話が紡がれるにつれて瞳には輝かしさが戻り、反対に毛皮は疲弊に汚れて見えるようにシャシャには感じられた。
「この地で最も強い種として、わたしは模範的に生きてきたつもりだ。でもね、遠縁の若者、わたしにはひとつだけ自然のすることで許せないことがあった。あいつを跡形もなく連れ去っていくことだ」
伴侶の死後、他の生き物どもに遺骸を与えることが許せなかった雪豹は、洞窟の奥に隠したという。大きな獣も死ねば食われる。鳥どもはどこへでもやってくるし、小さな獣でも遺骸を相手にすれば無敵だからだ。だがそれらの目を逃れたところで、もっと小さいものからは逃れられない。虫と微生物は、雪豹の伴侶を結局のところは蹂躙した。
「もしかしたら、あれは自然に背こうとした罰だったのかもしれない。獣に食われていればすぐにあいつの身体はなくなっただろうが、虫どもの食う速度では本当にゆっくりとしかなくならなかった。わたしはなす術もなくその変貌を見つめるしかなかった。あいつが長くゆっくり蝕まれるはめになったのは、わたしのせいだった」
「己以外に腸を食い裂かれた姿も、耐え難い。どちらが正しいということでもないだろう」
「そうかねえ。そうだったのかもしれないね」
しばらく聞き役に徹していたシャシャがぼそぼそと口を開いたせいで、雪豹は少しばかり現実の中に立ち返ったようだった。少しだけ笑いに似た顔をしたが、それが本当は何を示す顔だったのかシャシャにはわからない。
「だがもはやわたしも、あいつと同じ身の上になる時がきた。もうこれ以上孤独に苦しむ必要もない。自然はやっとわたしの死をもたらしてくれる」
月は沈みつつあった。夜通し語ったせいで雪豹の声はますます掠れ、風のような響きがその声音に混じっている。
「シャシャ、わたしはおまえに会ってやっとわかったことがある」
黄金の瞳には靄が厚くかかっている。
「あいつが死んでからわたしが再び孤独になったのは、あいつの名前を呼べないせいだった。欠けがえのないはずのあいつの姿も、時と共に朧になる。形がなければ留まれないのは、目に見えるものだけではない。あいつの名前を呟いたり叫んだりできれば、きっとわたしはもう少しばかり救われただろう。だからシャシャ、急がなければならないよ」
夜が明けきった頃、狐に雪豹を託したシャシャは再び西へと発った。岩場はそれからもしばらく続き、やがて湿った林に至るまでシャシャは歩みを止めなかった。
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