夜明けのカスパール

大槻 羊

第1話


  その年の冬は殊更寒く、普段ならさほど降り積もらない雪も止めどなく降り続けた。西の森と皆が呼び習わすこの森の住民たちも、戸惑いつつ自らの命のために忙しなく冬支度を整える。

 広大な西の森の中には数えきれないほどの命が犇めいているが、この思わぬ寒さのせいでどれだけが失われただろう。岩と岩の合間からじっと森の様子を伺っているシャシャは、ぼんやりと死んでいった生き物たちの姿を思い浮かべた。だがそのどれも具体性を欠いていて、希にはっきりと描き出せた空想も、よく考えれば数日前のシャシャの獲物だった。

 シャシャに友達はいない。森の住民たちの中には、一族で暮らすものもいれば上手く他のものと共存しているものもいる。本当に孤独なものはそれほどいない。だがシャシャには、親もきょうだいも友達もいなかった。

 自分の想像力と交遊の欠如に嫌気が差したシャシャは、少し身体を振って雪を払い落とす。雪と一緒に下らない想像も振り落ちた。そんなことよりも何か食べるものを探そうと、空気を吸い込み耳を澄ます。

 冷たい雪を無音で踏みしめ進むうちに見つけたのは、丸々とした兎だった。シャシャは兎が好きだ。旨い。風下で身を潜め、その薄茶色の食糧をじっと狙う。混血だからと同種から見放されて久しいせいで、シャシャは己の狩りの腕に研鑽をかけるしかなかった。今となってはこの唐突な厳冬でも生き延びる可能性が高いことに感謝している。

 この時も、脚に力をためて跳躍し、その薄茶色のちっぽけな物体を捕らえるところまでは非常に上手くいった。だが不審なことに、シャシャの爪の下で兎はぽつりと呟くのだった。

「猫さん、あなたはとても美しいのですね」

 黒々とした瞳はどこを見ているのかわからず、シャシャはその声に思わずたじろいだ。兎はもう一度、どうやらじっとシャシャを見つめながら口を開いた。

「あなたの瞳はとても美しい。オパールのようだ。屈強な脚も力強い尾もとても優雅ですね」

「おまえは今から喰われるのにどうしてそんなにのんびりしているんだ」

 シャシャにはどうしても兎が不審に思えて、ついうっかり返事をしてしまった。口をついて出た言葉に顔をしかめたが、兎は何とも思っていないような顔で少し笑うのだった。

「今年の冬は寒いでしょう。どのみちわたしは春まで生きられません。どうせ死んでしまうのであればより美しいものに食べられたいのです。でもどうか一思いに殺してくださいね」

「狼や狐ではいけないのか」

「いけません。狼は傲慢で、狐は浅はかです。寂しい半端もののあなたがよいのです」 

 半端ものと言われたシャシャは、何とも不思議な心持ちだった。同族から嫌悪の意味でそう呼ばれたこともあれば、悪戯好きな鳥どもからからかい半分に言われたこともある。だが今から死ぬ無力な生き物に、肯定的に言われたのは初めてだったのだ。

「おまえは死ぬことが怖くないのか」

「いいえ、怖いです。でも死ぬのはこのからだであって、このからだに宿ったたくさんの過去の命の断片は、きっときょうだいたちが引き継いでいくでしょう。だからわたしの死などは大きな問題ではないのです」

 兎が言うことはシャシャには理解できなかったが、どうも兎はそれでもよいというような態度であった。シャシャもまた、シャシャが生きていく上で関係のなさそうなことはどうでもよかった。

「わかった、おまえを喰おう。だがもう少し話し相手になってくれ」

 シャシャはこの、逃げそうにない兎を非常食兼話し相手として、ほんのしばらくの間だけ生かしておくことにしたのだった。

 それから二匹は、共に寝起きした。シャシャは飢えることなく日々の糧を得続け、そのおかげで兎は生き延び、そうして半月は満月になった頃である。

 その頃にはすでに二匹は互いを最もよく知るであろう関係になっていた。森の住人についての話、季節の移ろいについての話、忌々しい尾なし猿どもの話、月に暮らしている者らの話など、耳目に触れる様々なことを話し合った。

「そういえばシャシャにはなぜ名前があるのですか」

 兎は唐突に尋ねて、控えめな鼻を少しだけひくつかせた。

「おまえには名前はないのか」

「わたしは十番と呼ばれていました」

「十番?生まれたのが十番か」

「はい。他の兎も同じような感じで、何番めとか、最初とか、そういう呼び方をします。シャシャのように、特有の名前を持つものは他に知りません」

 確かに、シャシャはシャシャ以外に固有名詞を名乗るものは知らなかった。それはシャシャが異質で、森の外れものである印でもある。

「おれに名前があるのは、母が飼われた猫だったからだ。尾なし猿の習慣ではあらゆるものに名を付ける。シャシャというのは尾なし猿のこどもが付けた」

「ではなぜシャシャは森へ来たのですか」

「脚が大きかったからだ」

 山猫の父を見初めた母がシャシャを孕んだが、尾なし猿はそのことを知らずにしばらくはシャシャを育てていた。だがシャシャの脚が異様に強く大きく育っていくことを訝しく思ったらしい。とうとう山猫のこどもだと明らかになり、住み処を追い出され森の側に置き去りにされた。

 だが森とて事情は同じだった。尾なし猿の習慣で珍妙なことを考えて名前を持ち、狩りができずきょうだいがいない。シャシャの居場所は森にもなかったのである。同族たちはシャシャを混ざり者と呼んで側ヘ寄らせなかった。

「ねえシャシャ。わたしはシャシャが名前を持つことを羨ましく思います。遺伝子を分け合っていても、わたしはきょうだいたちとは違う。でも何が違うのか分からなくなるんです。だからわたしは、わたしが他とは違うわたしだと知りたいのです」

 小刻みな心臓の音を立てながら、兎はシャシャにその温かい身体を近付けた。兎の背に顎を乗せると、陽だまりの匂いがする。

「どうかシャシャがわたしの名前を付けてください」

「無理を言うな。おれにはそんなことはできない」

「いいえ、どうかわたしの命を奪っていく代わりに、わたしに名前をください」

 シャシャは少し喉を鳴らして不満を表明したが、兎は意に介さない様子でまた小刻みな心音だけで答えるのだった。

 

 その日からシャシャは折に触れて兎の名前を考え始めた。別に十番でも十一番でもよい気もしたが、そのことを言うと兎は耳を垂らして抗議をする。兎の親にとっては十番であっても兎自身にとっては自分は唯一である、それに他に兎の話し相手がいないシャシャにとっては少なくとも今のところ兎は一番目のはずだ、そんなにころころと変わる何番目かは、意味がないのだと言う。

 そう言われてしまうとそれもそうなような気がしてきて、結局は名前を付けることを承諾してしまうのだった。

 さて考え始めたものの、シャシャには名前を付ける要領などわからない。そもそも自分の名前がどうやって付けられたのかも知らないのだから、取っ掛かりすら掴めずに困り果てた。狩をしていても、寄ってくる狐を追い払っていても、どうにも集中できない。思案に飽いたシャシャは、森の英雄と名高い狼の頭目に言を求めた。

 狼たちは勇猛な戦士たちとして森にその名声を知られており、中でもその頭目は森の守護者として崇められている。傲慢だという兎の言葉もそれはそのはずで、広大な西の森の中でも狼たちほど高貴なものはいないと彼ら自身も思っているのだった。

「数多の狼を従える頭目にご挨拶を。助言を求めたく参上しました」

「混じりものの山猫か」

 頭目としてはまだ年若く力強い狼は、尊大な態度でシャシャを迎えた。実のところ遥か昔から混じりものを出し続け、それでも頑なに群を維持している狼に対して、シャシャは複雑な思いであった。ここで争う利もないとぐっと息を飲み込んだが、そんなシャシャの様子を見て狼の主は生暖かい目で笑った。

「おまえの親の失態であっても、おまえの失態ではない。少なくともおまえは誰恥じることのない狩の腕を持つのであるから、大きく構えていればよい」

 ではなぜおまえはおれを混じりものと呼んだのだと言いかけたシャシャは、兎の言っていたことを思い出して狼と同じように笑った。彼らは傲慢で、自分の群の中のことしか見えていない。それなのに群の中だけで作られた堅固な自信のせいで他者からもなぜか敬われている類いの所詮は俗物だろうと兎は言う。それならばその自己認識に付き合ってやるくらいどうということはない。

 シャシャは単刀直入に用件を述べた。つまり、名前とはどのように付けるものかと訊ねた。頭目は少々面食らったようではあるが、尊大な態度を崩すようなことはなく反対に訊ね返す。

「おまえはそれを知ってどうしようというのだ」

「いえ、別に。ただ知りたいのです」

 胡散臭いものを見るような狼にシャシャは重ねて笑いかけた。

「ご存じでしょう、猫とは好奇心に駆られて無駄と知っていることもするものです」

 だが狼は、納得したようなそうでないような、考えの読み取れない表情でただ首を横に振った。

「名前など無意味どころか害悪だ。個を個として尊重するようになれば、群としての団結と意義を見失いかねない。そのようなことを考えるものではない」

「そうですか。では群れないものに訊ねましょう」

 次にシャシャは、各地を渡り広い見聞を持つと知られる白鳥の元を訪れて同じことを聞いた。答えは狼と同じようなもので、やはり収穫はない。それどころか耳障りな羽ばたきと醜い声のせいでいっそう不快な訪問に終わってしまった。

 その後も群れるもの、群れないもの、多くの生き物たちに訊ねてはみたものの、納得のできる答は戻ってこない。鷹によれば、何と呼んでもそのものに変化はないのだから好きにすればよいという。熊に言わせると名前とは不幸の徴で、名前を持つ熊は大抵尾なし猿の見世物小屋で一生働かされるらしい。栗鼠にも訊ねようとしたのだが、あれくらいの大きさの生き物たちはシャシャを恐れて質問どころではなかった。

 兎はその話をすると、自分だって狩られる側のもののくせに面白くて仕方がないという様子で笑うのだった。

「そんなに笑うことはないだろう」

「だって、戸惑うシャシャが目に浮かぶのです。シャシャは実は困っている時が一番怖い顔なのですよ」

 途方に暮れたシャシャが最後に訊ねたのは、鹿の長老の元である。鹿は西の森では賢者と名高く、年老いてなお生き延びるその鹿は特に神聖なものであると尊敬を受けている。あの傲慢で不遜な狼たちでさえ、あらゆるものを透過するような彼の視線からは逃れようとするほどであった。

 その日はやけに霧深く、煙る木立の奥に木の枝と入り交じって鹿たちの角が蠢いていた。

 草食特有のあのどこを見ているのかわからない大きな黒い目が四方からシャシャを捕えると、やはり落ち着かない。その日は鹿どもを怯えさせないために兎を伴って訪れていたが、兎は全く動じない様子でただ着いてくる。もしかすると、シャシャには兎の考えていることもわからないのかも知れない。

 もしかしたらこの名もない兎は、本当は狐よりも狡猾で、シャシャにこうして課題を与えることで生き延びる期間を引き伸ばしているだけなのかも知れない。もしかしたら、本当は名前などどうでもよくてただシャシャを弄んでいるのかも知れない。無機物と有機物の中間のような鹿たちに混じっていると、それまで考えたこともないようなそんな考えが浮かんでくるのだった。

 シャシャはそっと耳を兎の方に向けて様子を窺うが、兎はいつも通り小刻みな心音をたてるだけで特段の変化はない。ただ静かにシャシャの横を着いてくる。

 いいように使われているかも知れないという疑念と、それならそれでもよいという思いと、いずれにしてもいつかこの兎を喰らうのだという考えが混濁としてシャシャの内に渦巻く。それにもしかしたら、ただ単に草食の性として考えが読めないだけで、兎に嘘偽りはないのかも知れない。全てはシャシャの不安が見せる幻なのかも知れない。

 鹿の長老は、長い睫に囲まれた大きな大きな黒い瞳で佇んでいた。挨拶もそうそうにいつものようにシャシャが用件を切り出そうとすると、彼は白い息を吹き出しながら口を開いた。

「名前について聞いて回る山猫の話は届いている。シャシャ、おまえがいずれここへ来るともわかっていた」

「それでは長老は答をご存じでしょうか」

「残念ながらわたしにはおまえにその答を教える力はない。だが生命の王ならば教えてくれるだろう」

 周囲の鹿どもが吐き出す白い息が霧の中に溶け込んでいっそう空気が白く濁っていくかのようにシャシャには感じられた。他者の息吹に包み込まれ捕えられるような、気味の悪い感覚から早く逃れたい。あれほど腹の立った狼の気持ちが、今はシャシャにも理解できた。

「生命の王とは初めて聞きます。そのものはどのような生き物なのですか」

 兎がシャシャの隣で声を上げた。場に飲まれつつあったシャシャに少しだけ身体を寄せる。兎の心音はシャシャの動揺を鎮めるのに役立った。

「賢い兎よ、そのものはどの生き物とも違う。全てを知っていて、全てを従えるものだ。この森よりも遥か西にある渇いた地で、もうすぐ生まれるだろう。星がそのことを示している」

「ではその王とやらに訊ねてみましょう。とはいえどの生き物かもわからない王は探せません。何か手がかりはないのですか」

「そのものが真に王なのであれば、出会えばわかるだろう。しばらくしたら星たちが一斉に落ちる。落ちて王の誕生を祝いに行く。シャシャよ、天をよく見ていなさい。星が落ちる場所に向かうのだ」

 長老の元を辞す頃には霧は晴れて、乾ききった冬の空気が満ちていた。まるでさっきまでの出来事が、嘘や夢であるかのような、騙されたような、不可思議な心持ちがする。

 シャシャはその日、どうにも落ち着かない気持ちを抱えたまま過ごした。木立と鹿たちの角が林立する様、彼らの吐き出す白い息と濃厚な霧、そして何より光を吸い付くそうとするような黒い目の数々が何度も脳裏に浮かんでは振り払うようなことを繰り返す。彼らだってシャシャや、シャシャが日々の糧とする生き物たちと何一つ変わらないはずだ。なのにどうしてあれほど気味が悪く計り知れないような気がしてしまうものか。首に牙を立てればやっぱり温かい血が吹き出すはずだし、肉を食めば腹が満ちてしばらく生き延びるための活力となるはずだ。

 足元で丸まっている兎に目をやると、兎は目を閉じて静かに呼吸を繰り返している。兎もまた鹿どもと同じ黒々とした目をしていることにわずかな動揺を抱えているシャシャは、ふと思い立って軽く兎を蹴り、仰向けた。兎は薄く目を開け、何も読み取れない表情をしている。腹に鼻先を近付けると規則正しい心音とともに温まった空気が感じられた。そこでシャシャは兎の首もとに、そっとささやかに歯を当ててみる。

「くすぐったいです」

 兎はそう言いながらも身体を強張らせることもなくシャシャに任せている。普段であれば特段気にもしないことだが、この時のシャシャにはどうにも腹が立つような、落ち着かないような気がした。シャシャはそのまま徐々に顎に力を入れて、兎の心音や骨の軋み、肉の固さに注意を向けた。

「シャシャは今日は、たくさん困っていましたね」

「そうか」

「ええ、たくさん怖い顔をしていましたもの。実はわたしも困っていたのですよ」

 兎は心持ち苦しそうな声を出すが、身体は全く硬直せず、心音もいつもと変わらず小刻みではあるが落ち着いたものだった。それを確認するとシャシャは急に馬鹿らしくなってしまった。自分ひとり動揺している。飢えることはあっても襲われることは少ないシャシャには、兎の何もかも諦めたような態度が時々理解できない。それは兎がどう考えているか、何をしようとしているかに関わらず、襲われ搾取される側には固有の態度なのかもしれない。

 数時間ぶりにやっと気が静まったことでシャシャは兎に対して申し訳ないような気になって、再びひっくり返して、兎の首元を今度は舐めてやった。

「困っていたのはわからなかった」

「だってシャシャがあんまり怖い顔をするものですから。それで、生命の王とは本当にいるものでしょうか。理解しがたく思います」

 少し身を捩って居ずまいを正した兎は、思案顔で呟く。鹿の長老の言に対して森の住民たちは無闇に異を唱えることはしない。それは最も尾なし猿に殺されて、それでも混血を産み出さない、思慮と克己心に満ちた弱者たちに対する敬意の表れでもある。その指揮を取り長く生き延びてきた者の言うことには、この不確実なことの多い世界ではある程度確実性の担保があることも事実ではある。

 だが今朝の話は兎の言う通り、信じがたく容易に理解できないことであった。

「さあ。でももう他に手がかりがないことも確かだ。森で知見を称えられるものらは軒並みろくな答を持っていなかった。その王とやらがどんな奴であるかはわからないが、いずれにしても名付けの方法を知るためには森の外に行くしかないだろう」

「ではシャシャは行くのですね」

「春になったら西へ向かう」

「それならばわたしも共に出ましょう」

 兎はシャシャに身を寄せて目を閉じた。小刻みに働く心臓に合わせて微かな音をたてて、同じくらい微かな温かみをシャシャに分け与える。

 やっぱり、この兎が何を考えてどうしようとそれはシャシャには関係のないことであると、この時シャシャは確信した。それも全て含めていずれシャシャが平らげる。この小さく力ない生き物の内側にあるものは何もかもが自分のもので、その代わりになるならどれほどいいように使われても構わない。兎がシャシャに何をしようとも、何もかもが些末な問題に思えた。

 

 そうしてまた月が満ちて欠けて、数度それを繰り返した。

 雪が降り積もることも減り、太陽の出ている時間も少しずつ長引いて、森の住民たちは緊張を緩め始めた。まだ草食にとっては食糧は乏しく、肉食のものらも楽とは言いがたかったが、その分の期待と歓喜が森中で感じられる。それはシャシャと兎も同じだった。

 気が緩んでいたのだ。だからその日シャシャはいつもより長い時間森を彷徨い狩に興じたし、兎も同様に常ならばしない長い外出をした。シャシャはそう思っていた。

 陽が行き過ぎて月もまた行き過ぎて、最後の力を振り絞るように牡丹雪が降りしきり、それでも兎は姿を見せない。この時シャシャの頭に真っ先に浮かんだのは、裏切りであった。

 兎の不在時にはいつも感じている感覚が日に日に募っていた。あの日、鹿どもが蠢く霧の中で感じた奇妙さ、不気味さである。この猜疑に満ちた想像が、ただの妄想ではなく真実だったのではないかという思いが満ちる。腹の奥が熱くたりシャシャは己の怒りを知った。今すぐにでも兎を見つけ出し噛み殺してやろうと決意すると、シャシャは寝床を這い出して森の中へと駆け出した。

 森は久々の雪に押し込められ、何もかもが息絶えてしまったような沈黙を守っている。シャシャの獰猛な足取りすら雪は瞬時に飲み込んでいった。同時にシャシャの、目に見える怒りも飲み込んでいく。腹の奥には変わらず憎悪と怒りを抱えたままで、どの狩の時よりも静かに迅速に森中の身を隠せる場所すべてを駆けてゆく。

 途中何度か迂闊な兎と遭遇した。シャシャは怒りに任せて最初の一匹は噛み殺しなぶったが、それにも飽きて三匹目からは構うことなく進む。半日が経ってもなおシャシャの兎は見つけられない。

 シャシャの当初の怒りは徐々に萎んでいった。代わりに姿を表したのは、どこかで死んでいるのではないかという恐怖と、すでに食われているのではないかという別の怒りであった。いずれにしてもせよ兎は見つけ出さねばならない。恐怖と怒りが代わる代わる支配する身体を引きずって、シャシャは駆けた。

 

 そうしてどれほど過ぎた頃か、兎は見つかった。黒々とした意思の見えない瞳をやや半眼にして、じっとシャシャを見つめていた。疲れ果てて肺も凍えたシャシャは、その場で全身から力が抜けていくのを感じる。あれほど荒々しく渦巻いていた怒りも恐れも、今となってはすべてどうでもよい。兎がいて、シャシャがいて、それで世はこともないのだ。ぐだぐだと理由を付けて事態をこねくり回していたが、本当はそれだけでよかったのだ。

 少し笑ったような顔の兎はその場でシャシャを待っている。瞳には光が反射し、それでやっと朝が来ていることに気が付いた。そして呼び掛けようにも兎に名がないせいで何といえばよいか戸惑い、しかたがなしにシャシャは兎に歩み寄った。

 兎の腹は空だった。

 臓物がすべて食い破られて、冷たく、硬く、かつて兎だった見知らぬものになっていた。ただ瞳だけが変わらずこの兎がシャシャの知る兎であったことを示していた。

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