第5話 図書室
後ろから伸ばされたアリトンの腕にバニラはびっくりした様子で後ろを向いた。そして、上目遣いでアリトンをジッと見つめる。バニラの大きなヘーゼルの瞳とアリトンのキリリとした薄い藍色の瞳はお互いを離さなかった。
そしてアリトンはとても近くで見たその可愛らしい仕草にドキッとした。
「ア、アリトン様。ありがとうございます」
バニラがアリトンの制服の裾をキュッと握る。瞳はアリトンに向けたまま頬がピンク色を濃くした。
それから恥ずかしがるように下を向く。その時裾を掴んでいた手も少し下げられた。
「おっと」
引っ張られるような形になったアリトンが数センチ前に行きさらに二人は近くなった。
「あ、ごめんなさい」
再びバニラは上を向き、アリトンと見つめ合う。バニラは裾を掴んでいた手をアリトンの胸に当てた。
でも、押すわけではなく今度はバニラが数センチ近くに寄った。まるでキスをするような距離だった。
アリトンが慌てて離れた。距離に動じたのではなく、自分の鼓動の激しさをバニラに知られることが恥ずかしくて距離を置いたのだ。
誤魔化すように灰色の長めの髪を自分の耳にかけ直す。
「はい、これでいいのかな?」
アリトンはバニラが取ろうとしていたであろう本をバニラに渡した。
「はいっ! ありがとうございます!」
本を見て一瞬びっくりしたバニラは綻ぶような笑顔をアリトンに向けた。アリトンは先程までの妖艶な瞳と天真爛漫な笑顔とのギャップに胸の鼓動を抑えることができず視線を彷徨わせた。
「わぁ! アリトン様は難しいそうなご本をお読みなんですねぇ」
バニラがアリトンが手に持っていた本を見て感心したように言った。
そしてバニラはアリトンの隣に立ちアリトンに自分が持っていた本を持たせてアリトンが読もうとしていた本をバニラがめくるような体勢になった。
バニラの頭がアリトンの鼻の近くになる。名前の通りバニラのようなチョコレートのような甘い香りがアリトンの鼻孔を擽る。アリトンは知らず知らずにバニラのチョコレートの髪に鼻を近寄らせていった。
ほんの数秒だろう。しかし、アリトンを朦朧とさせるには十分な時間だった。
「すごーい! 私ではちっともわからないわぁ。アリトン様はこのような本を読むなんてステキですねっ!」
バニラはその頭の位置のまま上目遣いでアリトンを見た。アリトンの目はすでに垂れ下がっている。
「これくらいは、まあ、当然だよ」
アリトンはそう言いながらも嬉しそうに口角を上げていた。
「当然じゃないですよっ! アリトン様はとってもとってもとっても頑張っていて、すごいですよ!」
バニラの勢いのすごい褒め言葉にアリトンは目を見開いた。
アリトン・ガルバーブは侯爵家の次男で父親は宰相であり、兄はすでに宰相補佐官をしている。
婚約者のエマ・セイミシェルは侯爵家の一人娘で、エマの父親は最高裁判官だ。
アリトンは婿養子になる予定であった。
アリトンはかなり優秀で入学してからずっと主席か次点かという成績であった。そして、エナも優秀でいつもアリトンと主席を争っている。
しかしそれについて大きな齟齬があった。そのことを、エマは切磋琢磨していると思っていて、アリトンは圧力をかけられていると思っているのである。
なので、エマはエマ自身も頑張っているのでアリトンに労いの言葉をかけることはなかったし、アリトンもまたプレッシャーをかけてきていると思っているエマに労いの言葉をかけることはない。
バニラはアリトンとの時間のために何度も図書室へ赴いた。
そして二人で並んで座るとアリトンの肩に頭をコテンと乗せて呟いた。
「アリトン様は充分に頑張っているわ」
「頑張りすぎないで、アリトン様の体が心配だわ」
アリトンは婚約者エマも頑張っているということをすっかり忘れ去り、自分はもっとゆっくりすべきなのだと考えるようになった。
それとともにバニラとの距離も近くなった。いや、距離が無くなった。
〰️
夏休み前のテストでアリトンは十位以下だった。
そして、アリトンが落とした成績の中ではエマはダントツの主席であった。
エマがアリトンの元へと行く。
エマは黄緑色の髪はいつもキレイにアップされていて乱れはない。大きなダークブラウンの瞳は少しだけ吊り目でキツ目の印象は否めない。真面目な彼女は女が成績上位であることへの誹謗中傷と嫉妬に対していつも心の中で戦っていた。彼女にとって将来のアリトンを支えるために必要な知識だったので、まわりに何を言われても頑張ることは止めなかった。
アリトンの成績に驚いたエマはアリトンのそばへ行った。アリトンはそれだけで嫌な顔をした。エマはそれでもアリトンのために一言言わねばならないと気を強く持って声をかける。
「アリトン様。どこか、お具合でも悪かったのですか? 最近お帰りも遅いと伺っておりますが……」
「主席だからって大きな態度をするなっ! 勉強だけがすべてではないだろう? 私は生徒会も忙しいのだ!」
アリトンはクラス中に聞こえるような声で怒鳴った。そこまで感情を見せる姿も珍しい。
「そうですのね。しかし、これからのことを考えますと知識は必要なものですわ。夏休み明けには生徒会も終わります。
復調なさることをご期待しておりますわ」
エマにしては精一杯の励ましであった。
しかし、アリトンは上から言われたようで気に入らなかった。実際にエマが上であったことはすでに頭から消えていた。
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