第2話 聖女
「ねぇ、大丈夫かしら? 痛くされてない? 苦しくない? 待っていてね、私が絶対に助けるから」
聖女の姿が見えた。
彼女はロザリオを握りしめ、夜空を仰いでいる。
どうやら俺は無意識に千里眼の魔法を使い、視界を飛ばしていたらしい。
「神様、お願いです。あのひとを守って。彼はもう十分戦いました。散々傷つき、苦しんだ。その上、あんな場所で囚われているなんて辛すぎて……」
ひんやりとした風が吹き抜け、星灯りに照らされてた彼女のミルクティー色の髪が、一瞬ふわりとなびいた。
「元はといえば、冒険の旅に誘った私が悪いのです。そう、あの日彼に出会わなければ、声などかけなければ、彼はこんな事に身を投じる事はなく、そのまま平穏な日常を送っていたでしょう。悪いのは全て私なのです。もしも、このまま彼が壊れてしまったら…… 私は死んでも償えない。私はどうなっても構いません。だからどうか彼をお救いください」
彼女の大きな瞳から、真珠のような美しい涙でぽろぽろと溢れた。
泣かないで、俺の大切な相棒。
君と過ごした日々は俺にとってかけがえのないもの。
君に出会わなければ、俺は冒険なんてできなかった。
暗い部屋の片隅でただ小さく丸まって、生きることを止めたかもしれない。
君に誘われて、飛び込んだ冒険の世界はとても新鮮で、本当に楽しかったよ。
上手くいかなくて辛い時もあったけれど、その迷いも良い経験になった。
強力な敵に何度も立ち向かって倒したり、難かしい謎を必死に考えて解いて漸く先に進んだり、一つひとつ困難を乗り越えて、俺は君と一緒に強くなった。
俺たちは多くの村を救い、街を救い、沢山の人々を窮地から救った。
あの時の歓声、人々の笑顔、明るい涙。俺は忘れない。
人々は喜んでくれた。でも、一番嬉しかったのはきっと俺だった。
俺は勇者になった事で、幸せで、満ちたりた時を過ごせたんだ。
だから泣かないで。
俺がこうなっているのは、君のせいなんかじゃない。
君は確かに俺を救ってくれたのだから。
本当にありがとう。
気持ちを込めて寄り添うと、彼女はハッとして振り向いた。
「この気配…… まさか、そんな! 貴方、そこにいるのね。来てくれるとは思わなかった。なんて言ったらいいの……。うん、嬉しい……。ごめんなさい、泣いたりなんかして。貴方の方がしんどいのにね」
彼女は目尻を拭うと、にっこり微笑んだ。
「でも良かった。私を見つけてくれて。私ね、貴方にどうしても言わなければいけない事があったの。上手く伝えられるか自信がないのだけれど……頑張るから聞いてくれる?」
彼女は呼吸を整えるようにして一度目を瞑ると、再び空を見つめた。
「……今夜の空は素晴らしいわね。魔王の城を目指して冒険している時、何度かこんな星の夜があった。懐かしいわ。あ、コンシエルの丘の星はとても美しかったわよね。覚えてる?」
ああ、覚えているよ。
「あの場所は本当に空気が澄んでいて、星空と一体になれそうなロマンチックな夜だったのに、ノクチュアったらキノコの毒出しを失敗して…… シチューを食べた後、みんなで盛大にお腹を壊して大変だったわよね」
そうだな、モンスターじゃなくてキノコに殺されるかと思って、絶望した。
星空の下でお腹をさすりながらみんなで唸って伸びてたっけ。
今じゃ笑えるけれど、散々な夜だった。
「あのシチュー、味は最高だったけれど、ノクチュアの殺人料理史に残る衝撃的な一品だったわよね。…… ノクチュア、元気かな? リンドレイクと仲良くしているかしら」
俺も、天然な魔法使いのおどけた顔と、彼に恋した銀白の無翼竜の姿を懐かしく思い出した。
「あの二人、今はオキュルシュスの滝の裏に住んでいるのよ。ほら氷河の国の。私たちが訪れた時は滝の周りも凍っていて、滑って転んだノクチュアが気の毒なくらい大きなこぶを作ったわよね。それでも、ノクチュアはあの国に、あの日の朝陽に照らされた氷河の色合いに魅せられたのですって。確かに、青い世界とオレンジ色が混ざって涙が出てしまうくらい美しかった。でも、あの辺りは他の季節も絶景が多いのですって。夏に行くとあの巨大な滝に虹がかかるらしいわ。……一緒に見たかったわね」
冒険の日々は戦いの連続で、苦しい時もあったはずなのに、思い出されるのは、仲間とワイワイ過ごしたなんとはない日々、そこで出会った人々の姿。
平和が訪れたら、もう一度巡りたい場所、会いたい人、沢山あったな。
息を飲むほど美しい大自然、歴史を感じる街並みを、ただ楽しむために歩きたかった。
戦いによって破壊され、必ず再建すると村人達が意気込んでいた、あの聖堂の様子も、焼けた麦畑に再び黄金の穂が揺れる様子も、俺はきちんと見届けたかった。
そして他にも……。
「オキュルシュスの滝も良いけれど…… 私、本当はね、貴方ともう一度、絶対に行きたい場所があったのよ」
彼女の言葉に予感が働く
その場所は……まさか。
「『アモーレのトンネル』。新緑の季節に緑のアーチが綺麗なあの場所を、貴方と二人で歩きたかった」
そう言って彼女は、頬を赤らめた。
『アモーレのトンネル』は北の方にある周囲の木によりアーチ状に囲まれてたトンネルだ。
前に行った時は、パーティのみんなでオレンジや黄色に染まった秋のトンネルを賑やかに潜った。
実は、神秘的なあの場所にはある言い伝えがある。それは「トンネルを二人で歩けば恋が叶う」というものだった。
だから今の彼女の発言は、遠回しな俺への告白。
見えないはずの俺に向かって、彼女は淡い微笑みを浮かべた。
「本当は言わないつもりだった。ごめんね、迷惑だと思ったけれど我慢出来なかったの。ずっと、ずっと。貴方のことが好きでした」
迷惑な筈がない。
何故なら俺も、君のことが……。
現実に打ちのめされ、落ち込んで、出掛ける気力なんてなかったあの日、正体不明の焦りや不安中に沈んでいたあの時、君は俺のもとに舞い降りた。
最初はただ、綺麗な女の子に少しでも近づきたくて、俺はお節介をやいた。
そのうち魔王の侵略に対抗する為の冒険に巻き込まれた俺は、もっと君の役に立ちたいと思うようになった。
君だけじゃない。みんなにも認められたくなって、修行して、強くなって、モンスターを倒せるようになって、「勇者」になれた。
それは全部君のおかげ。
ヘタレな俺を、眩しい笑顔と温かい言葉で励ましてくれた。
直ぐにマイナスに感情が揺れがちな俺のワガママを受けとめて、優しく前を向かせてくれた。
君が俺を強くした。
「貴方がここに来たという事は…… きっと終わりが近いのよ。本来なら、貴方を何が何でも引き留めるのが私の役目なのでしょうね。でもそれをしたら、私は貴方の信じた私じゃ無くなる。だから、言うわ。私は貴方の『聖女』だから」
彼女は見えないはずの俺の目を見つめた。
「本来の貴方はこんなところに囚われているのはもったいない。貴方はそんなものではないはずよ。もっともっと色々なことが出来るそれが本来のあなたの姿よ。思い出して、今は、本来の姿から離れている。ここは大丈夫、私が必ず守るから。…… 貴方を待っている人がいる。本当に離れがたいけれど、私は聖女だから祈るわ。…… 貴方の未来が幸多きものであることを。行き先は分かるでしょう。……時は来ました。さあ、いってらっしゃい」
彼女が微笑んだ。
咲いた花のような華やかな笑顔で。
「いつでも応援しているわ。これからは貴方が貴方の人生を生きるの。そこにシナリオなんて無い。正しいルートなんて無いのよ。だから時々迷ったって大丈夫。きっと迷わない人なんていないから。失敗してもいい、真面目じゃなくてもいい。ゆっくりでいい、貴方自身を大切に生きて」
彼女の姿が見えなくなっていく。
やめてくれ。離れたくない。
想い合えたと思ったのに、急に突き放すなんて。ひどいじゃないか。
ここが俺の居場所なんだ!
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でもきっと、君の涙と笑顔は、それを望んではいないんだろう?
分かったよ。
君は優しい。どこまでも。
それでこそ、俺が信じ、好きになった君だ。
ああ、聞こえるよ。
微かだけれど俺を呼ぶ声が。
ありがとう俺の聖女。
俺を長い間守っていてくれて。
俺も、君のことがずっと好きだった。
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