『勇者』である君へ − the voice of salvation.−
碧月 葉
第1話 魔王
「ねぇ、眠れないの? ダメよ。ちゃんと寝なければ、身体に悪いわ」
鼻先に彼女の顔が近づく。
蠱惑的な甘くて色っぽい薔薇の香りが、俺の全身を刺激する。
薄布一枚の夜着に身を包んだ彼女は、男の夢を体現したような肉体を僅かに揺らして、くすりと笑った。
「人間は夜眠るものよ。起きているだけで自覚していなくても疲労が蓄積するんですって、不便なカラダね。だからお眠りなさい。深い眠りが体を治すのだから」
散々俺を弄んだ者がよくそんなこと言う。
「あら、私が貴方の心配をしてはいけないの? そうねぇ、その滑らかな肌、引き締まった肉体。私はもっと楽しみたいの。睡眠不足や不摂生でぼろぼろでぶよぶよになった勇者なんて構い甲斐がないじゃない」
指先で俺の胸を弾いた彼女はニヤリと笑う。
「それに…… 貴方が死んだらつまらないでしょう。暇を持て余した私はうっかり
俺は拳を振り上げようとするが、鈍い金属音とともに鎖が手首に食い込んだだけだった。
「……うふふふ、冗談よ、愚かな勇者さま。本当に
「眠れないなら、一杯どう?」
透明な瓶の中で、黄金色の液体が揺れている。
栓が抜かれると、甘い蜂蜜の香りが漂った。
「蜂蜜酒よ。栄養価が高いの。
彼女は瓶を持ち上げて酒を口に含むと、そのまま俺の口を塞いだ。
香気を放つ液体が口内に流れ込んできた。
飲み込むまで解放する気配が無いので、俺は仕方なく蜂蜜酒を受け入れた。
「どう? 甘めの白ワインのようで美味しいでしょう? …… お代わり、要るわよね」
当然俺に選択権は無く、彼女は飽きるまで何度も酒を注ぐ。
「そういえば、人間の中には新婦が蜂蜜酒を造って新郎に飲ませ、子づくりに励む…… なんて風習もあったわねぇ。どう? 貴方も元気になってきたかしら?」
愉快そうに笑う彼女は残った酒を一気に飲み干した。
「そろそろ眠れそう? あら、お酒の力を借りてもダメなの? やっぱりここでは寝心地がイマイチなのかしら? でも場所は変えてあげない。だってこの眺め、私はとても気に入っているもの。裸で岩に繋がれた貴方は本当に可愛らしいわぁ」
俺の素肌に彼女の視線が絡みつく。
「『己の身と引き換えにして世界を救いたい』と願ったのは貴方ですものね。私はその願いを叶えただけ。貴方は私を存分に愉しませ、その命を捧げるの」
彼女はぺろりと、俺の胸を舐めた。
「だから貴方は最期まで私に美味しく食べられなさい。味付けは、刺激的な方が好みよ。清廉な貴方の魂と肉体に、憎悪、悲嘆などをもっともっと刻みつけたい。隠し味はどうしようかしら。罪を刻んだ人間は美味しいのよね。邪淫の罪で味付けするのも良いわねぇ…… 嫌いじゃないんでしょう?」
彼女は微笑むと俺の体に唇を這わせていく。
ぶるりと身体の芯に震えが走る。
「ほうら、正直。可愛い」
くすくすと彼女の笑い声が響く。
「そんなに唇を噛んで…… あらあら切れてしまったじゃない」
白い指が俺の唇を擦って、滲んでいた血を掬い取った。
「甘い」
その指を舐めて、満足そうな表情を浮かべる彼女は正に魔王だ。
恐ろしく強く、どぎついほどに華やかで美しい。
何もかも圧倒的な彼女に俺は到底敵わない。
だからほんの気まぐれでも、俺ごときを遊び倒すことで世界が救われるのなら、それで構わない。
このままここに囚われて、そして喰われることこそ、幸運と思って受け入れるべきなのだろう。
「あら? つまらない表情になっているわよ。もっと抗いなさいよ。…… そういえば、貴方と一緒にいた聖女さま。貴方の身代わりになりたいと、この前私を訪ねて来たわ。さすが純粋で一途な聖女さまよね。「貴女は
聖女がここに?
俺のためにきたというのか?
「嬉しいわよね。全く貴方たちは純粋で愚かしい。気づいていないの? それもそうね。貴方たちは似たもの同士ですもの」
俺達は似てなどいない。
聖女は俺の何倍も気高く優しいのだから。
「教えてあげましょうか。堕ちかけてるわよ、あの娘。……罪深いわねぇ、貴方がそうさせたのだから。…… 本当に分かっていない顔ね。あの娘、このままでは聖女として死ねないわ。あれではただの、恋焦がれる愚かな女。じきに加護を失うでしょうね。そして破滅に向かってまっしぐら……」
魔王は一瞬慈悲深い女神のような表情を浮かべると、小さくため息を吐いた。
「世界に一応の平和が訪れるとね、途端に勇者も聖女も不要になるのよ。力もあって民衆の人気がある人間なんて、権力者にとっては邪魔なだけ。他国や他の貴族に利用されるのも面倒なのでしょう。あの娘には、愚鈍な末席の王子との結婚話が出ているわ。手っ取り早く身内にして飼い殺すつもりね。…… 聖女さまはどうするかしら。刃向かえばあの娘は王国の脅威。適当な罪で焼かれるか、首を落とされるか時間の問題よ。加護を失った聖女はどうなるかしら? きっと神は助けてはくれないでしょう。聖女はね、神を愛さなくてはいけないの。貴方を愛している彼女には奇蹟はおこせない」
吐き気がする。
俺たちは、命がけで戦った。
王だって貴族たちだって民衆だって、熱狂的に俺たちを支持した。
まさか俺たちが、アイツらにとって、ただの都合の良いコマだったなんて事あり得ない。
「可哀想に。あの娘は人々を欺いた魔女として死ぬことになるかもしれないわね。…… 貴方が望むなら、私があの子を伝説にしてあげましょうか? 愛する勇者を救うため、その身を犠牲にして魔王に囚われる聖女さま。己を捧げて勇者と世界を守るの。人間は好きでしょ、そういうヒロイズム……貴方が今まさにそれに酔っているように」
酔っているのは俺じゃなく、お前の方じゃないのか。ああ何だか分からない。
「あら、睨んでくれるの? 嬉しいわ。さあて、可愛らしい聖女さまは、どう料理しようかしら。貴方も最も
あの
煽られる憎しみを押し込めて、俺は愉しげな魔王から目を逸らす。
「そうねぇ。夢魔にでもしてあげましょうか? 清らかな娘ほど、夢魔になった時の反動は大きいの。きっと男たちを虜にする淫らで素敵な娘に生まれ変わるわ」
やめてくれ!
無垢な
俺は横を向いて、目を閉じる。本当なら耳も塞いでしまいたい。
「怒りに嫉妬と欲望が混じったわよ。なんて単純。安心して、あの娘を夢魔にしたら真っ先に貴方の元にも遣わしてあげる。二人揃って悦楽の中で極上の罪を味わうことができるわよ」
こんなものは俺を苦しめるための戯言だと分かっているが、きっと酒のせいだろう理性が弱まってきた。
本能が燻って、心が苦しい。
「所詮貴方は私の手の中。ずっとここにいなさい。無駄な抵抗はしなくていいわ。現実なんか忘れて、このままじんわり深く堕ちて……」
彼女が甘く優しく、耳元で囁く。
そうだ、俺は必要とされてここに居る。
何があってもここにいる価値がある。
いよいよ酔いがまわってきたのか、急に眠気が襲ってきた。
ココニイナイト……
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