ふうちゃん
登崎萩子
ふうちゃん
金曜日の夜や、休日に弁当を買いたいというのはよく分かる。
父の店の弁当は美味しかった。自分もそうなりたいと思ったのは、俺にとって当然のことだった。自分で選んだ事とはいえ、金曜日は忙しい。一人でやっているので、多少は作り置きもないと、お客さんを待たせてしまう。
六月に入って雨の日が多くても、日は長くなってきていた。夕方五時を過ぎると、つい外を見てしまう。今日も彼女たちは来るだろうか。疲れているのにそんなことが気になった。
今まで子供に興味がなかった。それなのに、四月から来るようになった女の子と母親を見ると気分が晴れるような気がした。
「こんばんは」
二人が今日も来た。
「ゆう、お昼はカレーだったんだ。から揚げがいい」
母親は少し笑い声を上げた。
「から揚げ弁当二つ下さい」
先払いなので会計をする。彼女の左薬指に、指輪はない。それに気づいたのはいつだったか。母親は白いブラウスに黒いスカートで、女の子はキャラクター物のピンクのリュックを背負っていた。保育園に通っているらしく、いつも待ち時間には賑やかに会話していた。
父の頃からの常連の関谷さんが店に入ってきた。
「お帰りなさい。ゆうちゃんなんだか大きくなったわね」
「ご飯、いっぱい食べてるから」
またお客さんが入ってきて、会話が途切れる。
「私いつものやつね」
「はい」
返事をしながら、会計をする。
「早く帰ったら、お弁当ほかほかかな」
「うん」
きっと幸せな家庭なんだろう。指輪をしない人もいるんだろうけど、なぜ妻に指輪の一つも買わないのだろうという気分にさせられる。店内に響いた親子の会話に関谷さんも笑う。
「ここのお弁当食べると元気が出るのよね」
「もちろんですよ」
関谷さんの年齢は聞いたことはなかったが、還暦は過ぎているだろう。親戚がいない俺にとっては、唯一の家族のような存在だった。
外は雨が降っていて、人通りは少ない。今週はまだ関谷さんは来店していなかった。今日あたり来るだろうか。
「さてと」
話し相手はいない。木曜日は店があまり混まないので暇だった。金曜に来る客が多いので、前日は我慢しようという人が多いのだろう。
定番のひじきやかぼちゃの煮つけ、コロッケ、海老フライなどの揚げ物の下ごしらえをする。プリントアウトした表を見た。売れたもの、天気、曜日を表にまとめてある。
煮物の醤油と砂糖の甘い匂いがした。朝六時から九時まで開けているのは、通勤客にも売れるからだった。次の十一時から十四時の用意と言っても、量は多くない。父は一日中店を開けていたようなもので、客が来れば弁当を作っていた。それで、俺も店を開けている時間は長かった。
店のドアが開き、ドアベルがちりんとなる。いつの間にか客が来たらしい。
「いらっしゃい」
声をかけるが目線の先には、カウンター越しにガラス張りのドアしか見えない。外は小雨になっていた。
「風邪の人用のお弁当下さい」
子供の声が厨房まで響いてくる。思わず身を乗り出してみると、ピンク色の傘を持った、いつもの女の子が立っていた。髪は結っていない。
「お母さんは後から来るのかな」
出来るだけ優しく聞こえるように言う。確かいつも来るのは夕方で、平日の昼間に来るのは初めてだった。
「早くしてね」
女の子は俺の言葉を無視して、肩に下げていた花柄のカバンから、子供用なのかピンクの財布を取り出した。五百玉を取り出して、俺に向かって突き出してくる。
「のどが痛いのと、熱が良くなるやつ下さい」
まるでテレビのコマーシャルで、薬局にやってきた子役のようだった。
「悪いけど薬は売ってないんだ。お母さんはどうしたのかな」
中から出て、女の子の隣へしゃがみこむ。
「嘘つき」
とたんに女の子は怖い顔になる。目はつり上がって、頬は赤くなる。
「この前、お弁当を食べれば元気になるって言ったのに」
子どもとは思えない、うらみがましい言い方だった。驚いたが落ち着いて話す。
「誰が風邪ひいたのかな」
どうしてこの子の両親は、子供におつかいに買いに行かせたのだろう。女の子は黙ったまま下を向いている。
「薬屋さんて、遠いの?」
女の子は外を見ていまにも出て行こうとする。
「ちょっと待って、今、風邪に効くやつ持ってきてあげるよ」
全く訳が分からなかったが、女の子を一人で買いに行かせるわけにはいかなかった。
厨房に戻って、冷蔵庫から私物のうどん、卵とネギを持ってくる。ネギを刻んでタッパーに詰める。大根をさいの目に切って、その上にはちみつをかける。そういえば二階に薬があったような気がする。
「すぐ戻ってくるから、そこに座っているんだよ」
女の子は客用の椅子に座った。それを見てから靴を脱いで、階段を駆け上がって、自室に入る。戸棚から薬箱を出し、風邪薬、のど飴を取り出して階下に戻る。
女の子は顔をガラスにくっつけて、ショーケースの中にあるおにぎりを眺めていた。厨房に戻って弁当用の袋を出して、パックにきんぴらごぼうと卵焼きを二つ入れた。
「おにぎりは何がいい?」
「ゆうはね、いくら。ふうちゃんは梅干し」
「いくらかあ」
困ったことにいくらは置いていなかった。
「今日は梅干し、昆布、ツナマヨしか残ってないんだ」
「エー、じゃあ昆布」
女の子は残念そうにしたわりには、あっさりと別のものを選ぶ。
全部入れると結構な重さになった。
「お母さんはもうすぐ来る?」
もう一度聞いた時だった。店のドアが勢い良く開く。
「すみません、女の子見ませんでしたか」
ずぶぬれの母親が立っていた。灰色のトレーナーは濡れて黒くなっていたし、髪からは水が滴っていた。
「優理、なんで勝手に外に出たりしたの」
大声を出そうとして、失敗して盛大に咳き込む。優理と呼ばれた女の子の顔が、青いのを通り越して白くなる。
「お母さん、タオル持ってきますよ」
また二階に行き、バスタオルを持ってくる。店の中は静まり返っていて、換気扇の音しか聞こえなかった。母親にタオルを差しだす。
「すみません」
顔色が悪く、唇も紫というより青に近いくらいだった。
「明日、仕事休めそうにないから、もう帰ろう」
「そんなに具合悪そうなのに、仕事に行くんですか」
母親は不快そうに顔をゆがめて俺をにらんだ。
「ありがとうございました」
タオルを突き返される。女の子は不安そうに母親の手を握る。
「あの、余計なお世話ですけど、娘さんのこと叱らないでください。風邪が治るお弁当を買いに来ただけなんで」
母親が女の子をじっと見る。
「そうなの」
「うん。ふうちゃんがお弁当美味しいね、元気が出るねって言ってたから、ゆうが買ってきてあげようと思ったの」
とたんに母親の顔が歪んで今にも泣きそうになる。
「ごめんね、優理」
何度かごめんねと繰り返すのを、女の子 は黙って見ていた。
「あの、もしよかったら、お子さんを看てくれる人を探しましょうか」
「いえ、悪いですから結構です」
当然のように母親は断る。
「旦那さんはすぐに帰ってくるんですか。うどんが一人前しかないんです。」
袋と俺を交互に見て、何か考えているか目が泳いでいる。
「ふうちゃん、風邪ひいてるからお弁当屋さんに作ってもらおうよ。ゆう、火を使っちゃだめなんでしょ」
女の子、いや、優理ちゃんは、まるで姉妹のような態度で意見を言う。五、六才女の子はこんなもんなのか。俺にはよく分からなかった。
「良かったら、二階で休んでください。近所の知り合いに来てもらいますから」
普通なら、こんな申し出断られるだろう。
「あの、常連の関谷さんて人です。すぐ近所に住んでるんです」
母親は一言も話そうとしない。沈黙の中、大きな咳が響く。急いで店の電話からかけると、すぐに関谷さんが出た。
「すみませんが、すぐに店に来てもらえませんか?」
「あら、どちら様?挨拶もしないで、人を呼びつけるなんて一体どういうつもり?」
「優理ちゃんのお母さんが病気なんでとにかく店に来てください」
焦って、謝る前に口から言葉が出てしまった。
「すぐ行くから」
電話は切れてしまった。
「上、片付けてきます」
階段を上がって、二階の窓を開ける。店舗上の住居スペースは十二畳はある。間取りが変わっていて、洗面台と風呂トイレなどの水回りは一階にあった。物は少なくて、押し入れに布団と服が入っている。本棚代わりのカラーボックス一つと座卓を一つしか置いていなかった。
布団を敷いてシーツを取り換える。今さらながらこんなことを言ったのは間違いのような気がしてきたが、着替え用の服を出しておく。
一階まで行くと、まだ二人ともいて母親が優理ちゃんに話しかけていた。その時ちょうど関谷さんが来て、店に入ってきた。
「どこが悪いの?これから病院?」
「あの、ただの風邪なんです」
その言葉に関谷さんが大きくため息をついた。
「そう、大事じゃなくてよかった。宗馬、部屋綺麗なの?」
「はあ、関谷さんの弁当も今作ります」
「そうしてちょうだい」
それから、関谷さんはまるで自宅に招くように二人を階段に押しやった。
「ありがとうございます。少し休ませてもらいます」
母親が深々と頭を下げる。
「いえ、大したことはできませんけど」
さっそくうどんを作る。子供が食べるのだから、ねぎが辛くないように作り置きの出汁に先に入れる。レンジでおにぎりを温めて、関谷さんの分のお茶も忘れずに用意する。
準備中の札を出してから、二階にお盆にのせて運ぶ。
「宗馬は、彼女いないの?」
関谷さんは、俺がここに来た時から、遠慮というものがなかった。
「ちょっと前はいたんですよ」
正直に話す以外ない。言わなければしつこく聞かれる。
「映画に行ったときに、感動して泣いちゃったら彼女が引いちゃったんです」
「まあ、見た目を裏切られるものねえ」
確かに俺は身長が高いほうで声も低い。短髪なので職業の話になると、警官か自衛官に間違われることが多かった。
「ゆうは泣いたりしないよ」
関谷さんはそれを聞いて明るく笑った。
「お弁当屋さんってうどんもあるんだね」
優理ちゃんの言い方は大人っぽいが内容は子供らしくてつい笑ってしまう。
おかずを取りに厨房に戻って、二階に上がる。変な気分だった。まるで結婚して子供がいるような気がした。
母親と妻、そして子供がいて、おいしそうに自分の作った料理を食べているように見えた。彼女達はおいしそうに食べていた。優理ちゃんは次から次へと口に運んでいる。母親の方は頬に色が戻っていた。窓際は小雨でも、光が入って明るかった。
「ねえ、ふうちゃん、お財布と鍵持って来たの?お弁当屋さんにお金払わないと。ゆう大きい金しか持ってきてないんだ」
お金なんてと思った瞬間、お母さんがあーと声を上げる。
「どうしたんですか?」
「家、鍵かけてない」
すぐに立ち上がる母親に、関谷さんが肩に手を置く。
「雨だし、私か宗馬が行った方がいいわよ」
「でも、そんなことお願いできません」
「ゆう、お弁当屋さんと行ってくる。ふうちゃん、明日仕事に行くんでしょ」
優理ちゃんの一言で思い出したようだった。
「でも散らかってます」
「お子さんがいる所はみんなそうですよ」
関谷さんの言い分はもっとものような気がしたが、俺が行くのはよくないだろう。それでも、開き直ったのか母親が表情を変えた。
「紙とペンありますか」
描いた地図を頼りに歩くと五分くらいで行けそうだった。お茶を淹れなおして、俺と優理ちゃんで外に向かう。
俺と母親が二人で残る方がおかしい、という関谷さんの言い分が勝ったためだった。
水たまりのある道を歩く。俺が道路側に立つが、幼児と歩いたことがない上に、他人の子に怪我させないように気をつけるのは緊張する。
「優理ちゃん、手をつないでもらえるかな」
「なんで?」
「優理ちゃんの家に行くまで案内してほしいんだ。迷子にならないようにね」
十分くらいで三階建ての白いアパートが見えてきた。「コーポゼラニウム」と黒い文字が壁に貼り付けてあった。
一階の一番奥の角部屋のはずだった。道路側にベランダがあったので、反対側にまわる。ベランダは窓が一つ分しかなかった。間取りは1Rか1Kのように見える。三人で1Rは狭いんじゃないのか。
「こっちが、ゆうのお家なんだ」
急に腕を引かれる。ドアを開けると中は薄暗かった。
「お邪魔します」
靴を脱いで上がると、脇から優理ちゃんが入っていって照明のスイッチを押した。明かりがつくと、ベージュのカーテンがすぐ目に入った。左にキッチンで右手にドアがあった。きっとバスルームだろう。部屋は一つでベッドも一つしかなかった。テレビ、テーブル、小物を置いてある棚があった。床には色とりどりの折り紙が散らばっていた。乾いた洗濯物が窓際につみあがっている。
「はい、ふうちゃんのカバン」
鞄を受け取ると、玄関に引き返す。シンクが視界に入ってしまったが、使用済みの茶碗が置きっぱなしになっていた。優理ちゃんはいつの間にか折り紙を数枚手に持っていた。
「端っこに鍵入ってる?」
後ろ目たく思いつつも開けると、確かに茶色の皮製のキーケースが出てきた。鍵をかけて同じ場所に戻す。
「ふうちゃんの所に帰ろう」
帰る。なんて簡単に言うんだろう。母親がいる所へ帰るって意味なのは分かるが、まるであの弁当屋が家のように聞こえた。
「お弁当屋買いに、お客さんいっぱい来るかな」
「今日は雨だし、木曜日だからなぁ」
「お客さん来ないと、お弁当屋さんお金なくて困っちゃうよね」
「優理ちゃんみたいに金曜日に来るんじゃないのかな」
二人で帰る道は思ったより楽しかった。
店に帰ると昼の準備をする。十一時になるとお客さんがやってくる。空いた時間で優理ちゃんのお弁当を作る。関谷さんたちは、後でいいらしい。
優理ちゃんは二階で食べていたはずだったが、いつのまにか待合用の椅子に座っていた。椅子で折り紙を折っている彼女に声をかける人もいた。
近くの工事現場が休みになったのか、四、五人が一緒に来る。
「焼肉二つ、から揚げ、とんかつ。アジフライ」
どれも食べ応えがあるやつで、大盛りを注文される。
「急いでくれるかい。腹減ってるんだ」
「はいよ」
揚げ物を揚げている間に、ごはん、おかずを詰めて、袋と箸を用意する。
「お弁当屋さん、がんばれー」
優理ちゃんの応援に笑いが起きた。
お客がはけると、三時を過ぎていた。準備中の札を出して洗面台で顔を洗う。シャツを着替えると、ドアのはじっこから覗いていた優理ちゃんと目が合う。
「お弁当屋さん、今から出かけるの?」
「出かけないよ」
「お母さんのお弁当は何がいいかな」
「ふうちゃんはふうちゃんだよ」
やっぱりそうなのか。彼女は若いし、指輪もしていなかった。おまけに住んでいるのはワンルームだった。彼女はなぜ育てているのだろう。
関谷さんが二階から降りてきた。
「お母さん眠ってるから、優理ちゃんと本屋行って来たら?」
「お弁当屋さんが本を買ってくれるの?」
不思議そうな、疑うような言い方だった。
「俺が本を買ったりしたら変かな」
「うん変」
それでも関谷さんに見送られて、店を出ると嬉しそうに、にこにこしていた。結局本屋では塗り絵を買った。薬局に寄って薬も買う。
「なんでお弁当屋さんは男なのにご飯が作れるの?」
「俺のお父さんもお弁当屋だったんだよ」
同じ年代の男が近づいてくる。顔見知りでもないし、店に来た記憶もなかった。
「おい。風花はどこだ?」
口調は乱暴だったので、優理ちゃんは怖いのか、俺の脚にしがみつく。危うく「ふうか」なんて知らないと言いそうになって、思い止まる。今まで彼女の名前を聞いていないことに気づく。
「失礼ですが、どちら様ですか」
「お前こそ」
「見てわかりませんか。この子を預かってるんですよ」
「は、あいつがそんなことするかよ。いや。ちょうどいい。お前が育てろよ」
男の言い方は、ただ不快なだけだった。
「これから、三人で夕食なんです。失礼します」
優理ちゃんをだっこする。彼女の夫とは思えなかった。店まで遠回りして戻ると、男は諦めたのか姿を消した。優理ちゃんと二階に行くとふうかさんは起きていた。
「ふうちゃん、あの人また来たよ」
優理ちゃんは俺の服の裾を握った。
「優理、やっぱり動物園行くのやめよう」
「なんで?ゆう、パンダ見たいよ」
「誰なんですか?もしかして旦那さんから逃げてるんですか?」
聞かない方がいいに決まっている。俺には関係ない事だった。それでも聞かずにはいられなかった。
「旦那?あんな人。私は結婚なんてしてません。優理は姪です。弟の彼女は結婚したかったのに。弟は彼女一人で育てろって言ったんです」
「それなのにしつこいのね」
関谷さんは冷たく言い捨てた。
「そして、二人とも若かったからか。」
優理ちゃんのことを思って言葉は途切れた。
「私の両親は女の子は好きじゃないんです」
「独りで育てるのは大変ね」
関谷さんは動揺していないようだったが、俺は全く言葉が出てこなかった。
「職場は弁護士事務所で、理解のある方が多いんです」
「お母さんじゃないから、ふうちゃん」
彼女の笑顔は綺麗だが、寂しくなるようなものだった。
「動物園に行くのは、保育園の保護者の会の行事なので、強制ではないんです」
「弟が来ないか心配なのね」
「俺が一緒に行きましょうか」
馬鹿げた一言に、ふうかさんが目を丸くする。
「そしたら大丈夫?動物園いける?」
優理ちゃんの声に背中を押される。
「俺がお弁当作りましょうか」
「でも、そんな迷惑かけられません」
「子供の時ってお弁当楽しみでしたよね」
「じゃあ、ゆうがお金払ってあげる」
ようやくふうかさんが笑った。
「あの、それじゃあ、お願いします」
「いつでも店に電話してください」
「宗馬はうちに泊まんなさい」
二人に部屋を貸すことにして、関谷さんと店を出た。
「同情で好きになったって、うまくいかないわよ」
日が暮れた道に、母親代わりだった人の声が落ちていった。
「なんで父と結婚しなかったんですか」
「その方がよかった?」
「昔はそう思ってました。でも結婚とかは当人にしか分からない何かがあるんでしょう」
関谷さんは俺の背中を二度たたいた。
翌朝、店へ行くと、いつも通り開店準備をした。二人は帰って行った。
そして、動物園に行く日はあっという間にやってきた。三人で電車に乗って出かける。電車は休日のせいか席は埋まっていた。天気がいいので暑いくらいだった。
「お弁当屋さんは何が見たい?」
今も「お弁当屋さん」はおかしいような気がした。
「俺にも名前があるんだよ」
「お弁当屋さんの名前?」
「長谷川宗馬っていうんだ」
今まで自己紹介もなしに、一緒にいたのがおかしかった。
改札は公園口で分かりやすい。外に出ると、ふうかさんが優理ちゃんの手をつなぐ。
「荷物持ちます」
「いえ、大丈夫です」
「ふうかさんは手をつなぐ人なんだし、俺が荷物持ちます。動物園来れてよかったです」
「そうなんですか」
デートでも行ったことはなかった。今日の日程は公園内で遊んで、動物園は各自で自由に行く事になっていた。
集合場所に行くと、子供とその保護者が大勢いた。目があった人には挨拶を交わす。優理ちゃんは走っていく。
子供同士で追いかけっこをしたり、遊具で遊んでいる。優理ちゃんに手を振られたので振り返す。
「優理ちゃんのお父さんですか?」
「いえ、友人なんです。今日はかわりに来たんです」
全くの嘘ではなかった。十一時を過ぎるとお腹が空いたので、ふうかさんに声をかける。
「お弁当いつごろ食べますか」
「今から食べましょうか。あの、優理よんできます」
急いで走って行ってしまう。優理ちゃんと戻って来るとお昼にする。
「わあ、いつもと違う」
「そうかな」
「うん。いつもよりすごくなってる」
思わず笑ってしまう。近くにいた家族が声をかけてくる。
「ほんとだ、おいしそう」
「すずちゃんも食べていいよ」
女の子が一緒に食べる。集中して食べているのか口数が減っていた。
「ゆうちゃんのお母さん料理上手だね」
「違うよ、そう君が作ったんだ」
「えー、誰?」
「俺の名前が宗馬だから」
「お父さんの事そう君って言ってるの?」
「違うよ」
優理ちゃんは不機嫌になる。
「すずちゃん、宗馬さんは私達のお友達なの。だから来てくれたのよ」
ふうかさんが優しく説明する。
「親子ピクニックなのにお父さんは来ないの?」
子供は思ったことをそのまま口にする。
「すず、もうそんなに質問しないのよ。本当にごめんなさい」
すずちゃんの母親が言う。それでもすずちゃんは不思議そうにしているし、優理ちゃんは怒ったまま、黙っている。
「すずちゃん、俺はふうかさんと優理ちゃんのことが好きだから、一緒に動物園に来たかったんだ」
情けないことに泣きそうになる。ふうかさんがすかさずポケットティッシュを差し出してくれた。
「すみません、ほんとに涙腺弱いんです」
優理ちゃんが立ち上がって傍によってくる。
「ゆう達とそんなにパンダ観たかったんだね。ゆうが連れていってあげるから大丈夫だよ」
「二人ともあとでお腹空くといけないから、ちゃんと食べてね」
ふうかさんの言い方は母親そのものだった。
お弁当を食べ終わると動物園へ向かう。園内は家族連れが多かった。案内図を見てパンダの所へ向かう。
「かわいいね」
優理ちゃんは柵にくっついて中を見ていた。
「今日はありがとうございました」
「いえ、お役に立ててたらいいんですけど」
「私、自意識過剰かもしれないんですけど。あの、優理を育てている間は誰とも付き合うつもりはないんです。事件になるのって、母親が男と同棲したりするのが多いですよね」
ふうかさんは、早口で言い切った。
「なんでふうかさんが申し訳なさそうに言うんですか。あれって、犯罪を犯す男の方が悪いんじゃないですか」
「でも、その男を信用した女の方も悪い」
俺が男だから信用ならないのだろうか。
優理ちゃんは歓声を上げながら、見入っている。
「友人として手伝うなら大丈夫ですよね」
「友人?」
「ふうちゃんはふうちゃんだよって優理ちゃんが言ってました。俺も弁当屋以外の物になったりしません」
「そうでしょうか?」
関谷さんは関谷さんのままだった。
「それ以外にはなりません」
「同情ですか?家族ごっこなら他でやってください」
俺の父も実際は、叔父だった。独身だったが、俺を引き取って育ててくれた。
あれは家族ごっこじゃなかった。ふうかさんもそうじゃないのか。
「家族とか恋人じゃないと一緒にいられないんでしょうか。近所の人は駄目なんですか」
「ただの近所の人がお弁当作ったり、保育園や学校の行事に来るんですか?」
「いけませんか」
「変です。そんなの」
「俺は変でも構いません」
ふうかさんは黙って鞄の持ち手を握りしめた。
「ねえ、次はぞうが見たいな」
優理ちゃんは俺の左手を掴んだ。右手でふうかさんの手を取る。
「ふうかさんも行きましょう」
手をつないでも振りほどかれることはなかった。
第五十二回 北日本文学賞応募作品
Copyright (C)2022-登崎萩子
ふうちゃん 登崎萩子 @hagino2791
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