第5話 鏡

 俺はその夜は子どものことが気になって、ずっと低空飛行だった。

 相手もそれを察知していて、盛り上がらなかった。


「俺、そろそろ帰るよ」

「え、もう?」

「うん。帰ったらもう11時半だし。明日仕事だから」

 女は名残惜しそうにしがみ付いて来る。

「シャワー浴びて来る」

 俺は女を薙ぎ払って立ち上がる。

「一緒に入っていい?」

「一人で入るよ・・・早く帰らないといけないから。ごめん」

 子供がまだバスルームにいる気がしたからだ。


 恐る恐るドアを開けると、やっぱり彼はまだそこにいた。今度は床に体育座りしていた。ものすごく寂しい姿だった。母親と愛人が逢引している間、バスルームに追いやられるなんて・・・、どんなに心細いだろう。


「ごめん。シャワー浴びたいんだけど・・・いい?」

 俺は腰にタオルを巻いていたけど、恥ずかしかった。人として・・・。

 子供は何も言わないけど、そのまま帰りたくないからシャワーを浴びることにした。子どもはずっとそこにいるつもりらしい。全然、動かない。

「ごめんね。湯気でちょっと蒸れると思うけど・・・」


 俺はシャワーを浴びて女の汗と体液を洗い流した。

 シャワーのカーテンを開けるとやっぱりいる。何でだろう・・・お母さんが怖いのか。俺はせめて話し相手になってやろうと思う。


「名前なんていうの?」

 黙っている。

「いくつ?」

 やっぱり黙っている。

「じゃあ、指でやってみて。俺は50」と、言って手をパーにして見せる。

 子供はパーと人差し指で6と教えてくれた。


 俺はその瞬間、膝から崩れ落ちそうになる。

 その時、知的障害ではないと気が付いたからだ。

 恥ずかしくて涙が出そうだった。

 女と過ごしたこれまでの時間をすべて取り消したい。


「ごめんね。君のお母さん変だよね。子どもをホテルに連れてくるなんて」

 俺は申し訳なくて泣いてしまった。

 子どもは目を合せなかった。

「お母さん、何で君を連れてくるのかな・・・?」

 子供は何も言わない。

「喋れないんだ。じゃあ、鏡に書いてみて」


 鏡が蒸気で曇っていたから、試しに俺は鏡に「おなまえは?」と書いた。

 

『そう』

 完全に意思疎通ができてる。今までのことを何て説明していいかわからない。

 不倫もダメだけど、俺は彼女を愛してもいない。俺たちの関係は汚らわしいとしかいいようがない。

「へえ。かっこいい名前だね。どんな字を書くの?」

『?』

「そっか、まだ漢字ならってないんだ。多分、こうじゃないかな?」

 俺は演奏の”奏”と書いた。

 子どもは首を振った。


 ちゃんとコミュニケーションとれるじゃないか・・・それなのに、母親はずっとその子を無視していた。なんて最低なんだろう・・・。俺はもうあの女には絶対会わない・・・でも、俺が会わないと、この子は別の男との密会に連れまわされるだけだろう。俺よりもっと意識の低い男だったらどうする?最悪じゃないか。


「俺と君のお母さんは愛し合ってるんだよ・・・こんな所を見せてごめんね」

 俺は子どもに言い訳する。

「大人になると、愛を体で表現するようになるんだよ。動物も人間も愛し合うから子供ができる。君のパパとママもそうやって愛し合って君が生まれたんだよ。大人はみんなやってることだから・・・、君ももう少し大きくなったらわかるようになるよ。普通は人に見せる物じゃないんだけど・・・俺たちは馬鹿だから。嫌だったよね。ほんとにごめんね。君のお母さんは結婚してるけど、結婚した後で俺たちは出会っちゃったから・・・でも、俺が君のお母さんのことが好きで・・・毎回、無理やり誘ってるんだよ。

 お母さんは悪くないからね。君のお母さんはお父さんを愛してるんだから・・・」

 

 子どもは何も言わないが、俺は恥ずかしくていたたまれない。

「ほんと、ごめんね」

 俺は泣きながら謝った。

 彼を知的障害だと見くびっていたことも、同様に恥ずかしい。

 子どもがどれだけ傷ついたかと想像すると辛かった。

 しかも、自分の父親でない男と母親の行為を見て、人に対する信頼や倫理観が破綻したかもしれない。俺の罪は、ただ不倫をしているだけでなく二重三重に重い。彼は苦しんでいるんだ・・・。間違いない。


 子どもがガラスに何か書いた。

 きっと「だいじょうぶ」とか「いいよ」って書いてくれると思っていた。

 甘かった。


 そこには「しね」と書いてあった。


 当然だけど、やはりショックだった。

「そうだよね。君のお母さんにはもう会わない・・・君がそう思って当然だ。俺は自分が恥ずかしいよ。知ってたらこんなことしなかったんだけど・・・」


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