第6話 綺麗な世界
10年前
「今日からジル・グルーカス様のお世話をさせていただくことになりました、カイナと申します」
綺麗な女だと最初にその女と会った時に思った。俺が誰かの容姿を褒めるのはこいつが初めてだった。だがこいつは⋯⋯
ガシャーンと俺の目の前でガラスの花瓶が割れる。
「すみませんジル様」
「おいお前、なめていんのか?」
「すみません、完璧に仕事をこなすつもりが⋯⋯」
見るとカイナは水で濡れてしまった床をタオルで拭き、びしょ濡れになったタオルを濡れてない床の上で絞っていた。
「⋯⋯」
もはや絶句するしかない。普通の貴族ならば即クビにしている所だ。だがこいつは病気によって床に伏している母親を助けるために金が必要らしい。こいつはまだ俺とほぼ変わらない6歳だ、仕方ない、ちょっとの間だけ目を瞑ってやろう。俺は大人だからな。
その心の裏にはほんの少しの好奇心もあった。
そんなある日、家にサーカス集団がやってきた。俺が大好きな集団だ。彼らの派手な演出を見ると俺はすぐに笑顔になる。
「どうしたカイナ、なんでそんなに無表情なんだ」
「いえ、笑っていますよ」
「笑ってない!」
カイナのわざとらしくぎこちない笑みにイラついて声を荒らげる。クソ!こんなんじや俺の方が子供っぽいじゃないか。
それから俺は毎日カイナを笑わせるために頑張った。だが⋯⋯俺が大好きな大道芸者を呼んでも、笑える紙芝居を見せても、城下町で有名な遊びをしても全く笑わなかった。
「なんで笑わないんだよお前」
「ですから笑っています」
再びぎこちない笑みを見せる。口角を無理やりあげただけの見え見えの作り笑いだ。
「そんなものは笑いでは無い」
「そんなに怒らないでくださいよ、紅茶入れましたから」
「ふん」
だが、こいつが淹れる紅茶は美味い。俺の不機嫌な心も吹き飛ぶくらいに優しい味なのだ。
そしてもう一つ気づいたことがある。それはこいつが花が好きだということだ。一度カイナを庭の花畑に案内した時、目を輝かせていた。これでもう俺の勝ちは決まったようなものだ。あの庭の花で綺麗な首飾りを作ってあの鉄壁の表情を崩してやる。
そして俺は手が汚れることもいとわずにカイナの表情を崩すため一心不乱に花を上手いこと縫わせて首飾りの形を作っていく。それがなかなか難しく作業は早朝から日が暮れるまでかかってしまった。
できたその首飾りは決して綺麗とは言えないが世に出しても恥ずかしくないレベルにはできた。
「おい」
「はい、なんでしょうかジル様?」
皿を運んでいたカイナを呼び止める。
「これをお前にやる」
ぶっきらぼうに作った花の首飾りを差し出す。するとカイナは驚愕したように目を丸くした。
「これを私に?」
「そう言ってるだろう」
「ふふっ、ありがとうございます、とても嬉しいです」
カイナは笑った。その笑顔は今までのこいつの作り笑いより綺麗で屈託のないものだった。
「ふっ、なんだ幼稚だな、花なんぞで笑顔になるとはな」
勝ちを確信した俺は上機嫌で自分の部屋へと戻って行った。
・
「懐かしい夢を見たな」
「お目覚めですか?ジル様」
カイナのその優しい声で重い瞼を開ける。すぐに見えた天井は黄金に輝く金製のものではなく寂れた木製のものだった。布団もシルクの柔らかく滑らかな感触は無く、荒い布でできた布団だった。そうか俺はカイナにここまで運ばれたのか。情けない話だ、貴族がメイドに運ばれるなど⋯⋯
「カイナ、昨日の夜のことは⋯⋯」
布団から起き上がり、忘れていて欲しいという意思を顔で示す。
「ジル様紅茶を淹れました、どうぞ召し上がってください」
前とは打って変わって、メイド服ではなく町娘のような薄茶色の服を着たカイナが俺の隠れた意思を感じ取ったのかそう提案すると、紅茶の香りが風に乗って俺の鼻腔をくすぐる。
ほんの少し前まではこの紅茶を飲むことなんて当たり前だと思っていた。だがこの匂いが、この空間が、俺にとってとても大切なものだったのだと今になって気付かされた。
「あぁ、そうだな」
前と違ってカイナの顔がよく見える。周りの景色もより鮮明に見える気がする。昔は吐くほどに嫌いだった木の匂いが今では好きになりつつある。なんだ、世界はこんなにも綺麗だったのだな。
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