第9話 秀外慧中*


 依頼されていた衣服でも渡しに行ったのか、と思ったがそれにしては出てくるのが遅い。

 一向に出てこない雪藍を訝しんで楼閣の前に佇んでいた耀冥に目を留めた楼主が、耀冥を上から下まで眺め回して声を掛けた。

「お客様。今日はうちの自慢の妓女、天珀蓮が座敷に上がっております。滅多に店に出ませんが、今日貴方様がいらした時分と重なったのも何かの縁。寄って行かれませんか」

──天珀蓮……。ああ、いたな。那国の公子が執着しているとかいう妓女が。


一見いちげんお断りだと聞いたが?」

「ええ、普段は。今宵は家の若様が皆にも見せるようにと店を貸し切ってくださっているのです。ゆえに、小部屋ではありませんがそれでも良ければ是非」


──志家。紙、書籍から始まり玉石、骨董、舶来品、ありとあらゆるものを扱い、外国の事情にも通じている華南一の大商家。確か、今の当主は公麟こうりんだったか。


 人となりを見ておくのも悪くない、と耀冥はついと唇をなぞった。


***


「やあ、珀蓮」

 華南で知らない者はいない、志家の若様。

 大商家の若き当主であることは勿論、町娘から高級妓女、名家の令嬢まで虜にするその華やかな見目と社交的な性格も彼を有名にしている一因だった。

「若様」

「珀蓮、名を呼んでくれといつも言っているだろう?つれない女人ひとだ」

 気障きざな台詞さえもよく似合う。私相手でなければ、と雪藍もとい珀蓮は苦笑する。

「君が喜びそうな物が入ったよ。黄帝こうてい内経だいけいの写本だ」

「誠に御座いますか」

 本を取り出した途端、ぱあっと分かりやすく喜びを示す珀蓮に公麟は困り笑いを浮かべる。

「君は宝玉より書物の方を好む。変わった女人ひとだ」

 やれやれと首を横に振りながらも、公麟は何処か嬉しそうにしている。

「医学を学びたいと思っていたのです」

「そんなに喜んでくれると贈り甲斐があるよ。それはほんの一部だから残りが入手出来たら必ず君に見せよう」

 公麟の誓いに珀蓮が益々嬉しそうにその顔を綻ばせる。

「確か十八巻から成るとか。五臓六腑ごぞうろっぷはりについて学べる貴重な書物だと聞き及びました」

「困ったな、誰が珀蓮にそんなことを?」

 とん、と自身のこめかみを扇で打って困り顔を作ってみせる公麟に、雪藍も眉を下げた。

「……もしや、偽りでしたか?」

「いいや、正しいよ。だから、私の出番が無くなってしまうと思ってね。誰も彼も君の気を引こうと賢ぶるからいけない」

 公麟の冗談に珀蓮もくすりと笑みを零した。

 「慶鳳楼ここにいらっしゃるお客様は博識な方が多いのです」


──玉より書を好む、か。成程、確かに噂通り愚蠢ぐしゅんな女ではないらしい。

 耀冥は知己に『閻魔も真っ青の地獄耳』と呼ばれた聴力で彼らの会話に耳を側立てて、唇をなぞった。


「珀蓮、今日は何を弾いてくれる?」

「『西廂記せいしょうき』の一曲を」

「それはいいね、楽しみにしてるよ」 

 才子佳人劇、良家の子女と書生が恋仲になるという形式の物語。


──風紀が乱れるから禁書に、という上申が上がってきたことがあったが、見るのはこれが初めてか。


 耀冥はあらすじを見て『女が好みそうな話だ』と鼻であしらったが、煌葉に『男だってこういう話は好きだ、だからこんなに流行るのさ。全く君には情緒ってものがない』と言われたことを思い出して顔をしかめた。

 

 珀蓮が古箏に下から上へと指を滑らせると、いつぞやどこかで聴いたような虹を思わせる程に美しい顫音トリルが楼閣に響き渡った。

 宴の喧騒も一時ぴたりと止んで皆が珀蓮の方に注意を向ける。

 すっと息を吸った後、高すぎず低すぎず妙に耳馴染みのいい声で、珀蓮が西廂記の一曲を歌い上げる。

 箏の音色と同じく優しく空気を震わせ、しかし静かに染み込んでくるようなその声。珀蓮が披露したのはたった一曲だったが、やたらと耳にその歌声が残っていた。


「あの子が気に入りましたか」

 目の覚めるような紅色の衣服に、匂い立つような色気。

 煌葉が『女人が泣いて逃げ出す』『女人が隣に並んで歩きたくない男一位の称号を取れる』と評した耀冥の見目にも表情一つ変えない。

 これがてん壇香だんかだろうと耀冥は当たりをつけた。

「さてな。しかし、名妓と呼ばれるだけの事はある」

「ふふ、そういうことにしておきましょう」

「彼女はいつからここに」

「十の時に」

「貴女の子か」

 不躾な耀冥の問いに壇香は初めて驚きを露わにして、それからくっくっと肩を震わせて笑った。

「何がおかしい」

「花街の女に子持ちかどうか聞く御仁はそうはいませんよ、若様。……ああ、空いたようなのであの子を呼びます」


***


──何故ここに。


 天珀蓮と瑛雪藍が同一人物だと気付くものは華南でもいない。しかし、何もかも見透かしてしまいそうな彼の孔雀石のような目の中に映るのはいささか緊張を覚えた。


「見事だった。名は」

 どうやらバレていないようだとホッと息を吐きながら雪藍は答えた。

「天珀蓮と申します」

「妓女としての芸名だろう。真名まなは」

 遊び慣れていないのだろうか、と珀蓮は面食らった。花街の、それも華南一の高級楼閣の女に本名を聞いてくる客などそうはいない。

 極稀にお得意様に連れてこられた初めてのお客様が聞いてくることはあっても、彼ほど上流階級に属すると思われる人間が名を問うてくることはまずない。

「お客様。花街の女に真名を問うのは花街では禁じ手なのです」

「そうか。今日は生憎と時間が無い。失礼する」

 あっさりと引いた耀冥に、雪藍は『やはり遊び慣れていないだけだったか』と一人納得して彼を店の前まで送り出した。


「──面白いな、?」

 耀冥は口の端に笑みを浮かべながら慶鳳楼を後にした。



秀外慧中:才色兼備。

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