第8話 餅は餅屋


「いらっしゃいませ。──あ」

「返しにきた」

 耀冥はヒラヒラといつかの雨の日に借りた毛巾を顔の横にかざした。

「これはご丁寧に。ありがとうございます」

 頭を下げようとする雪藍を見て、耀冥がうんざりだと言わんばかりに眉根を寄せた。

「敬語は抜きに。羽を伸ばしに来た」

 いつぞや来たお役人様──実は丞相じょうしょうだったが──も「気を紛らわせにまた来る」と言っていたことを思い出して、雪藍は彼の申し出に応じた。

 

 華南はその街の特性か、身分を隠して現れる客人はさして珍しく無い。

 そして、財を誇示して偉ぶりたがる人間も居れば煌葉のようにわざと質素な身なりをして身分を低く見せたがる人間もいる。

 彼は多分後者なのだろう、と雪藍は耀冥のことをそう評価した。


「あ……申し訳ない、敬語が癖なのです。慣れるまで名前を呼び捨てにすることでご容赦頂きたい。名前を聞いても?その、貴方のことをなんと呼んだらいいのか分からない」

 耀冥は暫し考えて、今や知己ちきしか呼ばなくなった名を口にした。

耀冥ようめいだ」

「耀冥、耀冥か。良き名ですね」

 雪藍の感想に耀冥が『心にもない事を』と鼻で嗤った。

「陽の当たる場を暗くする、それがいい名前だと?」

「……えっ?」

 本気で驚いたと言わんばかりに睫毛を瞬かせる雪藍を見て、耀冥の方がたじろいだ。

「なんだと思っていた」

「暗い場所を明るく照らす、だと」

 

 雪藍から出たのが余りに自分には不釣り合いな言葉で、耀冥は鼻白む気も起きずに口の端を上げた。


──私が悪名高き『琰帝』だと知ったら、この男はどんな顔をするんだろうな。


「それで、剣技大会はどうだった」

 素知らぬふりで剣技大会の感想を聞けば、雪藍がふわりと笑みを浮かべた。

「ああ、王様が願いを聞き入れてくれて明琳の後宮入りは取り消しになりました。それに、今後女人を後宮に上げるなとも。聞いていたのと違って柔軟な御仁でした」

──柔軟、柔軟か。

 耀冥は喉の奥で笑いを噛み殺した。煌葉が望む『寛大な王サマ』像を見せることには成功したらしい。

 実際の所は自分に取り入ろうと娘を送り込んで来る貴族と「御世継ぎを……」と事あるごとに小言を呈して来る古狸達を躱すのに衆目しゅうもくを利用しただけだ。

 王が後宮に女人を集めて贅を尽くすことをよしとする民はいない。民が見ている場で止められる者はいないだろうと踏んだが、その通りになった。


「耀冥?」

「ああいや、良かったな。……王が護衛に望むと言ってきたら、どうする」

 雪藍が手を止めて困り笑いを浮かべた。

「実は……既に話があったのです」

 思わぬ告白に『誰かが王の名を騙ったか』と耀冥が眉を吊り上げる。

「ほう、どんな人間が来た。悪名高き王の使者ならさぞかし踏ん反り返っていただろうな」

「いえ、私と同じ年くらいの快活な方でした。お役人様とは思えない程明るく気取らない方でしたが、あの若さで丞相とは余程聡明な方なのでしょうね」

──煌葉め、余計なことを。

「それで、どうする」

「お断りしました。身に余る光栄ですが、私はしがない商人。この国の君主の護衛など私には荷が重い。それに、ここを離れるのも考えられません」

「……そうか」

 

「耀冥、まだ暫くいますか」

「何故」

「その……ちょっと用事があって店を空けなければなりません」

「ああ、すまない。遠出するなら軺車ようしゃ*を呼ぶが」

「あ……大丈夫です。すぐそこなので……」

 やたら行き先を濁したがる雪藍に更なる追求を加えることはせず、耀冥は椅子から立ち上がった。

「そうか。邪魔したな」

「急かしてしまって申し訳ない。よければ、またいらしてください。香りの高い茉莉花茶が入ったので次は是非」

「ああ」

──成程、先日の香りは紅茶だったか。


 雪藍が耀冥を見送って店の中に戻る頃合いを見計らって、耀冥は引き返して店の横に身を隠した。

 やがて店から出てきた大風呂敷を抱えた雪藍が向かった先を見て、耀冥は意外なことだと眉を跳ね上げた。


「──慶鳳楼?」



隔行如隔山: 行(職業)を隔てるは山を隔てるが如し『餅は餅屋』。

軺車:古来中国の馬車

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