第4話 煙雨飛花


「良ければこれを」

 雪藍が差し出した毛巾タオルを受け取って、耀冥は雨に濡れた長髪を拭いた。

「店主、この店は一人でやっていると聞いたが家族は」

「あ……おりません。早く嫁を取れと町の皆からお節介を焼かれはするのですが、中々来てくれる女人はいませんね」

 雪藍は冗談めかして笑ったが、その前に一刻の沈黙があったのを耀冥は見逃しはしなかった。

 ──成程、訳有りか。

 しかしだからといってどうということもない。別段知りたいとも思わなかった。どうせ華南を離れた後は二度と会うこともない。


「店主、明日は開いているか」

「あ……申し訳ない、明日は店を開けられないのです。明日は剣技大会に行きます」

 耀冥は毛巾を洗ってから返そうと思っただけだったが、雪藍は店の営業の有無を問われたと思ったらしい。

「……何?」

「明日、剣技大会が王宮で開かれるそうです。優勝者には王が一つ願いを叶えてくださると」

「願いか」

 欲とは無縁そうに見えたが人並みの商売欲はあるらしい、と耀冥は興醒めした気分で呟いた。

「はい。王に無闇矢鱈むやみやたらと女人を後宮に上げさせるのは止めるようにと願い出るつもりです」

 突然雪藍から出てきた自分の名前に、耀冥はぴくりと眉を動かした。

「ほお。恋仲の女が後宮に呼び立てられでもしたか」

「いえ。恋仲ではありませんが、お得意様の子女が後宮に呼ばれたと。しかし彼女は後宮に上がることを望んでおりません。それに、王は男色家だと聞きます。女人を後宮に上げることはいたずらに悲しむ人間を増やすのみで無益です」


 ──男色家、ねえ。

 耀冥はくっと内心でほくそ笑んだ。実のところ彼は別にそういう嗜好はなかったが、噂が立って子女を寄越してくる貴族が減るならそれはそれでいい、と噂を敢えて放っておいたのだ。

「ほう、王が男色家か。それは知らなかった。然し、些か無謀に過ぎるのではないか。王は己に刃向かう人間をことごとく処刑するという噂くらいは聞いたことがあるだろう」

「ええ」

 拍子抜けするほどあっさりと頷いた雪藍に耀冥が冷え冷えとした声音で雪藍に問いかけた。

「赤の他人のために死んでも構わんと?」

「いえ。ただ、王はそこまで愚かではないだろうと」

「……何?」

「『優勝した者には褒美を』とお触れを出しておきながら意に沿わない願いを申し出たという程度で何の力もない庶民を処刑すれば、民の心は離れます。王は確かに数多の人間を処刑してきましたが、処刑された者は貴族や大商家などの影響力のある者ばかりで、処刑された者の中には悪事を働いてきた人間が多く含まれる。どういうわけか、この街にはそのような表には出せぬ人の裏の顔の話が流れてくるのです。そのことを思い出して、この程度の願いを申し出る位では処刑はしないだろうと踏んだのです」

 

「王は処刑する人間を選んでいる、と?」

「ええ、恐らくですが」

 耀冥はくっ、と喉を鳴らした。

「面白い解釈だな、なんじが生き延びる方に賭けよう。店主、は店が開いている時に」

「はい。お待ちしております」


 琴心剣胆きんしんけんたん。箏を奏で風流を解する心も持ちながら、剣を取る豪胆さもある。


 ──面白い。


 耀冥は口の端を上げて、煙雨で花が舞散った道を辿って王宮へと足を向けた。



***


 

「雪藍!やっと来てくれたね。お前さんがいないと花代はなだい*が」

「おや楼主、アタシじゃ力不足だってのかい?」

 楼主と話す雪藍の前に現れたのは迫力の美妓、てん壇香だんか

 すらりと白く艶めかしい肢体に、豊満な胸、口元の黒子に赤い紅、楽器も歌舞も一流の色香漂う慶鳳楼一の名妓。

 紅色の衣服を好んで身につける華やかな美しさから、『華南の月季花*』と称される。

「い、いやあそんなつもりで言ったんじゃないんだよ。うちは壇香あっての慶鳳楼だからね」

 楼主のフォローを檀香が笑いながらあしらった。

「雪がいつ来るかってヤキモキしてたくせによく言うよ、全く。雪、お客様がお待ちかねだよ。丝绸之路シルクロードからの御一行様だ。早くしな」

「はい」

 

 ずらりと並べられた衣装と装飾具を見ながら雪藍は暫し悩んだ。


 檀香はいつもの如く目にも鮮やかな月季色を身に纏い、傾髻けいびんに髪を結い上げて斜めにしゃらりと揺れる一本簪を挿し、寄せ固めた髪の前に大輪の月季花を挿していた。

 異国から訪れた客人達は彼女を見て『東洋の紅玉ルビー』『東洋の真紅の薔薇』と呼ぶ。


 ──ならばそれと対になる装いを。

 

 雪藍は腰帯を外してはかま*を下ろして長衣ちょうい*から無造作に腕を抜いて脱ぎ、代わりに中央に碧色の飛翔する蝶が縫われたくん*を胸の上まで引き上げた。

 その上から鈴蘭の花が刺繍された薄水色のさん*を羽織る。

 それから鏡を見ながらえりを広げて間から裙に描かれた蝶が見えるように調整し、藍色の太帯で留めた。


 髪を全て結い上げることはせず、両側の髪を一束掬ってそれぞれ緩く編み込みにしてその二つを頭の後ろで留め、雪藍は装飾具の箱に指を滑らせた。


「飾りは……これか」

 雪藍は蓮の大輪をかたどった雪のように真っ白な花に碧玉が埋め込まれたかんざしを手に取って右側に挿した。

 指環と耳环じかんは身に付けず、白粉おしろいをはたき、小指で紅をすくって唇と目の上に薄く乗せ、二匹の蝶が描かれた藍色の瓜型の団扇を手に取る。

 

「支度は出来たかい?」

「はい」

 じいっと迫力の美女に上から下まで眺め回されて身だしなみを確かめられるのも、雪藍にとってはもう慣れたものだった。


 天珀蓮のを知るのは楼主と壇香の二人のみ。


「うん、悪くないね。──見せつけてきな、、アタシの可愛い妹」

 壇香が満足げに笑って雪藍、もとい、天珀蓮を送り出した。


  

 花代:客が妓女を呼ぶ時に払うお金

 月季花:薔薇

 袴:ズボン

 長衣:浴衣スタイルの服

 裙:ワンピース。

 衫:長袖の上着

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