第3話 琴心剣胆


 門戸を開けた先には色とりどりの漢服が並んでおり、かぐわしい香りが漂っていた。

 ──茉莉花モーリーファ、か?

 客の訪れに気付いたのかいつの間にか箏の音は止み、奥から耀冥と同じ程の年の青年が顔を覗かせた。

 ───あれが瑛雪藍か。

 濃い紫、龍胆紫ロンタンツー*色のはかま*の上から交領衫こうりょうきん長衣ちょうい*を紐帯で留めた清雅そうな顔立ちの青年が、耀冥の姿を見咎めてしゃの生地で出来た上衣を羽織って急ぎ足で耀冥の方に向かってくる。

「すまない、店主。営業中ではなかったようだな」

「いえ、このような格好で申し訳ありませんが御入用であればなんなりと」

 頭を下げる雪藍を、耀冥が片手で制した。

「いや、箏の音に惹かれて入った。店主、名は」

「瑛雪藍で間違いないか」と耀冥が聞こうとしたまさにその時、外から少女のものと思われる悲鳴が聞こえてきた。

 

『やめてください……!』

「っ、失礼……!」

 止める間もなく、雪藍が耀冥の横を擦り抜けて店を飛び出していく。

 ──あの細腰で出て行っても何の役にも立たなかろう。

 上衣を羽織っていた時に見えた雪藍の白く華奢な腕を頭に浮かべながら、耀冥は冷ややかな目線を扉の外に向けた。

 彼は人間を嫌悪していた。とりわけ、出来もしないのに他人を救おうなどというおごった人間は、彼が最も嫌悪するところだった。


 耀冥が扉を開けた時、かたかたと震えている、痩せ細って栄養状態の良くないことが一目で見て取れる少女と、いかにも破落戸ごろつきといった下卑た人相の男達に取り囲まれている雪藍が視界に入り、耀冥は心底不愉快そうに眉をひそめた。

「兄ちゃん、邪魔してもらっちゃあ困るなあ。そいつの親はなあ、六博りくはく*で大負けしたカタにそいつを置いて行ったんだよ。やらかしたケツはてめえで拭くのが世の道理ってもんだろう、親父が駄目なら娘に拭かせるしか無い」

「年端もいかない女子供を売り買いしようとする輩が道理を語るとは笑わせてくれる。どうせ勝てないようになっているんだろう」 

 静かに、しかし、その黒い瞳の奥にギラギラとした怒りの炎を灯して破落戸に少女を渡さまいとする雪藍の態度に逆上した男の一人が「調子に乗んじゃねぇぞ!」と叫びながら雪藍に殴りかかり、少女の口から悲鳴が漏れる。


 次の瞬間、雪藍が男の拳をなんなくかわし、ふわりと身をよじって、体格差のある男の腕を捻って男の身体を浮かせ、地面へと沈めた。

 雪藍がやられるのを期待してにやにやと笑みを浮かべていた破落戸達は一瞬呆気に取られたものの、すぐに怒り狂って一斉に雪藍に飛び掛かった。

 しかし雪藍は再びふわりと男達の攻撃を躱し、一人の男の肩を足蹴にして宙を舞い、その勢いのまま破落戸の一人に足蹴りを喰らわせる。そしてすぐに体勢を立て直して一人、また一人と投げ飛ばしていく。

 倒されていく仲間を見て漸く分が悪いと気付いたのか丸腰の雪藍相手に剣を抜く男達を見て、耀冥が普段ならば決してしない行動を、すなわち己の剣を雪藍に対して放り投げた。


 雪藍ははしっとその剣を掴んで鞘から引き抜き、ふわりと舞うように回りながら男達の剣を受け止める。

 その度に雪藍の長衣の裾がひらりとたなびく。自分よりも遥かに屈強な男達を相手にしているにも関わらず、寸分も乱れぬ雪藍の太刀筋。


 ──さながら、蝴蝶。

 幼少の頃に時を共にした一人の少女を己に流れる血のせいで喪って以来何かに心を動かされることのなかった男は、今飽きもせずその姿を眺めていた。

 

 しかし、長く続けばいいと思う時間はそう長くは続かない。それほど雪藍の応戦が鮮やかだったということだろう。

 雪藍はあっという間に男達から剣を叩き落とし、地面に沈め、意識のあるものは慌てて逃げ去っていった。


「怪我はない?」

「あ……」

 先程まで震えていた少女は目を丸くし、雪藍の問いかけに小さくこくりと頷いた。

 「私のことも恐ろしいかもしれないが、壇香さんの使いが来てくれるまでは私が隣にいるのを許してくれるかな?壇香さんは華南一懐が深くて優しいひとだから、もう何も心配は要らないよ」

 ふわりと雪藍の目元が柔らかく緩められたのを見咎めて、『さては天壇香の情人だったか』と耀冥は推測した。

 雪藍の言葉通り慶鳳楼の仲居はすぐに現れ、少女の手を取った。名残惜しそうに雪蘭を振り返る少女に優しく手を振りながら、雪藍は「またね」と微笑んだ。


「剣、助かりました。ありがとうございます」

 雪藍が頭を下げて剣を渡してくるのを受け取って耀冥は頷いた。

「ああ。店主に斯様な特技があったとは驚いた。名は?」

えい雪藍せつらんと申します」

 耀冥はその時初めて雪藍の顔をまともに見た。彼の紫黒の瞳の中に己が映っていることに気付いて、好ましいという感情を抱いた。 

 平時、他人に興味を示すことのない彼には極めて珍しいことだった。


「あの……?」

「ああいや、何でもない」

 立ち去ろうとしたその時、ぽつりと耀冥達の頭の上に水滴が落ちてきた。それはやがて大粒の水滴となって降り注ぐ。

「降ってきてしまいましたね。良ければ、止むまで雨宿りをして行きませんか」

 

 

「──言葉に甘えよう」

 


龍胆紫色:青みがかった濃い紫色。日本の竜胆色とは別物。

袴:ズボン

交領衫長衣:領は襟のことで、襟をクロスさせて着る一枚の浴衣・ワンピーススタイルの漢服。中華ファンタジー時代劇や中華ブロマンスで美形が良く着てるやつです。

六博:賭博の一種。

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