鮮紅が煌々と5

 光を避けるように静まり返ったナイフは四度、男の脚を刺しては切った。流れる動きで出血させると共に片膝を地へと崩す。

 そして男が片膝を着けた時、既に男性は背後へ。男の顎を掴み上を向かせると手に持っていたナイフの刃を喉元へ添えた。だがメインディッシュだと言うように一瞬、男性の動きが止まる。

 私はその光景に見覚えがあった。いくつもの映画で見た事がある。だからその後の行動も、どうなるのかも分かる。脳内で浮かび再生される数々のシーン。

 私はいつの間にか彼のナイフと男の喉元へ釘付けになっていた。さっきまで自分の身に降りかかっていた事など忘れ、今では興奮でいつもより鼓動する心臓を感じる。画面越しでしか見た事がないあれが今まさに目の前で起ころうとしている。私は食い入るように視線を向けた。

 ――早く。早く。心の中で一人そう呟く。

 そしてついに彼の手は動き出し、一瞬にして深く綺麗な線を喉へ生み出した。同時に大量の血液が空中へと放出される。聞こえていたコポコポという気泡の音もどうでもいい音はあっという間に消え、私はその光景に魅入っていた。

 宙を煌びやかに舞い降り注ぐ血の雨。見上げれば疎らに入り込む陽光を反射し所々が舞踏会のシャンデリアように煌々としている。降り注ぎ私を濡らすその雨粒一滴一滴はいつもと違い少し重くドロッと、肌を伝っていく。そして大きく息を吸えば充満した濃厚で濃密な香りが鼻腔を刺激し肺を満たす。双眸に蓋をすれば顔や脚の肌を撫でる血の温もりと肌触りを感じ、呼吸する度に脳を甘く刺激する香りを感じる。全身を巡る血液が共鳴するのを感じる。

 私は、幾度となく憧れたあの画面の向こうと同じように血を全身で浴びていたのだ。この汗のようにだがそれよりねっとりと伝う感触も血。どんな香水より魅惑的な香りとして体へ入り込むこれも血。

 私は今、血に包み込まれている。

 それだけで――そう思うだけで全身が痺れ脳が蕩ける程に心地好い。体の底から溢れ出す快楽が指先まで広がるのを感じる。


「ごめん。ごめん。ついちょっとだけやり過ぎちゃったよ。今、外してあげるね」


 どこか遠くから聞こえるような男性の声が響くと私の口を塞いでいたガムテープが一気に剥がされた。血の感触の邪魔をするようにヒリヒリとした痛みが口元を覆う。その所為か、少しだけ我に返った気がする。


「おーい? 大丈夫?」


 さっきよりも男性の声がより鮮明に聞こえる。頬を軽く叩く感触を感じる。

 私はゆっくりと天井を見上げていた顔を前へ戻し、瞼を開いた。


「おっ! 良かった。いやぁ。ビックリしたでしょ? ごめん――って」


 自分でも何となく分かる。私はきっと人前に晒すべきではない、だらしない顔をしてるんだと。口を半開きにして目は朦朧、緊張の一切ない緩み切った恍惚顔。

 でも自分ではどうすることも出来ない。

 まだぼんやりぼやけた視界の中で首を傾げるこの人は多分、こんな私を見て気色悪るがってるんだろうな。こんな風に血を浴びていながら、こんな顔をしている私に。それが分かっているはずなのに――今は気にならない程に気持ち好い。このまま溶けてしまいそうな気分だ。


「君すごい顔しちゃってるよ?」


 ふふっ、と笑う声が聞こえた。思ったよりは陽気そうな笑い声。

 すると男性は何かを拾ったのか少し屈むと私の顔にぐっと近づいて来た。


「もしかしてこれかい?」


 そう言って綺麗な鮮紅色に染まった手を目と鼻の先へ持って来た。丁度、スポットライトを浴びるみたいに一部が光を浴び艶やかなのが分かる。なんて美しんだろうか。

 すると男性はあろうことかその手で私の頬に触れた。あの美しい手が自分に触れていると思うと私は頬擦りするように顔を傾けてしまう。止められない。止めたくない。


「そう……。ふふっ、ふふふ」


 嬉しそうな声を出しながら男性の手が僅かに私の頬を撫でる。

 そしてゆっくり滑っていくとそっと親指が下唇へ触れた。線を引くように丁寧に移動していく指。端へ辿り着くと次は上唇をなぞる。親指が離れると微かに口内へ沁みる鉄の味。唇や口を切った時に味わえるのと同じ味。


「まさか――」


 男性は息を感じるぐらいまで顔を近づけてきた。

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