#29 10月2日 秋/再会/思い出になったのかな?


 どうでもいいといえば、どうでもいいこと。


 夏が盛りだった頃、新人を脱し始めていた木村くんは、ほぼ同期の萩原さんに告白して振られたらしい。私が直接聞いたわけではなく、他のバイトの子から聞いただけの話だったが。それで気まずくなってしまったのか、萩原さんは金木犀が咲いた頃に辞めていった。当事者だったらロマンチックな感傷に浸ったりするのだろうかと、その時は勝手に想像したりした。人が減ったのは間違いなく損失で、木村くんに対しての内心の評価はマイナスに傾いている。ある程度八つ当たりではあるのだが、余計なことをしてくれたなと思う。


 まぁ、最近の特異な出来事といえばそれくらいで、つまり私にとっては何もない日々と言って差し支えなかった。


 そんな平日の昼下がり。昨夜も紹介用の本を読み耽っていたせいで寝不足だった。あくびを噛み殺しながら、料理雑誌を立ち読みしている主婦らしき人を、ぼんやりと視界に入れている。


 店の入り口の開いた音に対して、反射の声がけを。


「いらっしゃ、」


 しようとして、途中で止まる。見慣れたような、見慣れていないような人物がそこに立っていた。


「太田さん?」


 少し雰囲気が変わった気もする、懐かしい顔だった。


「お久しぶりです」


 太田さんは照れたように微笑んで、小さく頭を下げた。


「久しぶり、どうしたの?」


「休みが取れたので、久しぶりに挨拶でもというか」


 私たちが会話を始めたことで居心地が悪くなったのか、立ち読み客が静かに店を出ていった。


「ちゃんと社会人やってますという、報告というか」


 太田さんは照れくさそうに笑いながら言う。


「そこは心配してなかった」


 なんだか無性に嬉しくて、私にも笑顔が浮かんだ。


「でも、わざわざありがとうね」


 きっと客足の少ない時間帯を狙ってきてくれたのだろう。


「忙しい?」


 聞かずもがなのことだろうと思いつつ。


「まぁ、そうですね。覚悟していたくらいは」


 太田さんは笑顔を苦笑の形に変えながら言う。


「でもこうやって休みは取れるくらいなので」


「それは何よりだ」


 無責任な立ち位置としては、そう言ってくれるくらいが一番安心する。


「まだ全然ひよっこで、そういうところのほうが大変ですね。一人前になるイメージが全然つかなくて」


「まだ半年だから、そういうもんだと思っていいと思うよ」


「まだ半年か、もう半年か……こう、ぼんやり振り返るともう半年って感じなんですけど、個別に思い出していくとまだ半年なんだなと」


 この子が噛み砕くように語っていく姿は、ここで働いていた時とはまた違って新鮮だった。きっと私よりもよほど起伏のある日々だろう。


「もし無理になりそうだったら、また雇ってくださいね」


 茶目っ気を含ませてそう締めたあたりはしっくり来る。


「それは大歓迎」


 去年と比べると、人手不足は如実なところだ。


「店長は裏にいるから、顔見せてったら?」


「そうですね、行ってきます」


 しばらくしてバックヤードから戻ってきた太田さんから、手土産を置いてきましたと告げられる。本当に良くできた若者だな……


 そこからまた少しだけ話をして、帰り際に太田さんは一冊買っていってくれた。先日私がSNSで紹介した本だった。どうやら、そもそもこの本の紹介が目に入ったから久々に訪ねてみようと思ったらしい。ありがたい話だ。


 忙しいと言っていたが、これからも妙な擦れ方をせず、素敵な人間になってくれれば、なんて。身勝手なことを気楽に思った。




 


 その日の帰り道。思い浮かべるのは、やはりというかなんというか、久しぶりの太田さんの姿で。寂しいような安心したような、先輩面甚だしい感情が渦巻いた。


 なんだか気分が良くて、アルミ鍋に入った冷凍のモツ煮込みと缶チューハイを夕飯にすることにした。コンビニ袋を指先に引っ掛けて、夕日の残滓を遠くに眺めながら歩く。


 そこで、ふと、釣られるように思い出す。


 湊咲は――去年拾ったあの迷子はどうだろうか。この半年であの子はどんな風になっているのだろう。


 最後に顔を合わせたのは春のことだが、もうずいぶん前のことに感じた。


 湊咲を取り巻く環境は、少なくとも去年とは大きく異なるのだろうけれど。彼女自身の様子がどうなっているのか、あまりうまく想像できなかった。


 夏頃までは多少の連絡もしていたけれど、もうしばらく途切れている。


 もしかするとこのままかな、とひどく冷静に思う。


 例えば、ここ最近においても。湊咲に話してみたいと思うことはあった。


 道端に咲く花の移ろい、変わらず美味しい喫茶店のオムライス、ふと見上げた空の色。そういうことをふと言葉にして、共有したくなる瞬間が無いわけではない。それは1年足らずの間にすっかり染み付いてしまった習慣のようなものだろうか。


 かと言ってそれを数十文字にまとめて送信ボタンを押してしまうほどの衝動には届かない。それくらいの感情。不意に浮かんでも放っておけば消えてしまい、消えたことに悔いも残らない程度のささやかな思考の蠢き。


 加えて言えば、きっと不要になったであろう私の存在を、無理矢理に湊咲の日々へ押し込むことへ抵抗感があった。私が不要になったのならば、それはきっと湊咲にとって良いことなのだろうという認識も確かにある。


 同年代だったり、趣味や打ち込むものが同じだったり。そういう相手と居たほうがきっと人生における加算は大きい。「よくある当然」はそれが多くの人間にとって最も正解に近いからこそ「よくある」。


 マイノリティが魅力的に映るとしたら、それが他人事だからでしかない。


 停滞する余裕があるなら悪いことでは全くないとは思うが、それもある程度の区切りが必要になる。だからきっと、彼女は最善をきちんと選び取ったのだと思う。


 あくまでも私は湊咲にとって、偶然そこに居合わせただけの、一時の止まり木にすぎない。


 そもそも私があの子に何かできたわけでもない。本当にただそこにいて、彼女の作った食事を食べていただけだ。むしろ施されていた側とも言えるな。なんなんだ。


 羽鳥湊咲にとって必要だったのはあくまでも時間で、そこに誰がいたのかはあまり大きな問題ではなかったのだと思う。孤独でさえなければ、それでよかったのかもしれないし。


 もしかするともっと彼女の助けになれた他の誰かもいたのかもしれない。私以外との交流だってゼロではなかったはずだ。せいぜい週に一度会う程度だった私の存在が、彼女にとって重要だったと考えるのはおこがましいのではないか。


 少なくとも私は何もできなかったし、してもいなかった。


 堂々と喪失感や寂しさを感じるほど、湊咲と一緒にいるために努力をしていない。


 そもそもそれほど彼女に対して執着を抱いているかというと、自分でも疑問だ。行き場のない感覚は確かにあるけれど、一度染み付いた習慣がなくなったから違和感を覚えているだけと言ったほうがずっと適切な気がする。


 静かで衝撃の薄い、当たり前のような離れ方。同じように距離が離れて、もうほとんど思い出せないような相手も少なくない。


 なんてことを考えていたら、家に着いた。


 そこまで来て指先の重さを思い出す。コンビニ袋の中身は浮かれ気味の晩酌セット。


 玄関で少しばかり立ち尽くして考える。



 

 ……これは明日食べることにしよう。

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