#3 6月26日 酔っ払い/迷子再び/帰れるの?
仕事終わりに学生時代の友人と食事に行って、最寄り駅まで帰ってきたのは終電の一本前だった。
明日は休みだ。酔いの残りと気分の良さと疲労を抱え、自宅までの道のりをほんのりと憂いている。コンビニで甘い物でも買ってやろうか。もうすでに、カロリーは摂りすぎているけれど。
改札を出て、じっとりと湿った夜の空気を吸い込む。駅前の商店街はもうほとんど照明が落ちていて、24時間営業の牛丼屋だけが暇そうに電気を消費していた。
正面のロータリーを迂回して、自宅までの道を想像する。多少遠周りになるが、街灯の多い大通りを通ろうかな。
などと上機嫌だった矢先、ロータリーの片隅にあるベンチが目に入った。というより、そこにいた人間が。
ぐったりと腰掛けている、おそらく若い女。背もたれに体重を預けきるような格好で、頭だけが前に倒されている。ロングヘアがすだれのように顔を覆い隠していて、その顔色は窺えない。
おいおい、と思う。周りにその人の知り合いらしき姿はない。声を掛けようとする人間も見当たらない。
どう振る舞うか、微妙なラインだった。
例えばそれが男なら。雰囲気に関わらずただの酔っ払いとして、当然のように素通りした。女でも、最低限の頼りがいの雰囲気さえあれば無視できたかもしれない。
でも、背格好や髪の長さに見覚えがある気がした。
まさかと思う。2週間やそこらで、知り合いでもない同じ人間と、何度も偶然で会うはずがない。しかもどちらもかなり、あちらにとっては危機に近いような状況で。
とはいえ一度気になってしまったらもう無視できない。“まさか”という気持ちの上に“もしかして”がよぎって、足を止めてしまった。
もう気づかなかったことにはできない。なんとなく通り過ぎてしまうこともできない。無視するなら、無視するという意思と決断が必要になる。
喫茶店で道案内を頼まれた時と同じだ。ここまで認識してしまえば私の問題になってしまう。見捨てれば、ぼんやりといつまでも罪悪感の出来損ないが残り続ける。
ほとんど諦めるような心地だった。
声を掛けてみるだけだ。眠っていて起きないかもしれないし。通りすがりとして、あくまでも出来る限りで。
背格好の雰囲気が似ているだけで、どうせ別人だろう。そもそも最寄り駅はここではなかったはずだ。
そんな自分でもよくわからない予防線を脳内に張り巡らせて。
自然な足取りを装って近寄ってみる。かすかに頭が揺れているが、意識があるのかどうかもわからない。湿気でやや暴れた髪が真上にある街灯に照らされている。
「……大丈夫ですか」
自分の声量が調整できず、妙にか細い声が出た。返事はない。
「水でも、買ってきましょうか」
うまく声になるようにと意識したら、喉のあたりがこわばった。しかし多少はまともな声が出た気がする。
「……ぃ」
目の前の女性から何か声らしきものが漏れた気がする。返事だったのか、ただ吐息が漏れただけなのか判別に困る。
どちらでもいいか、と思い直して周りを見渡した。一旦声を掛けてみたらなんだか吹っ切れてしまったような気がする。そして近くの自動販売機まで行って、宣言通り水を買った。
「あの、どうぞ」
購入してからまだ数十秒、あっという間に結露にまみれたペットボトル。差し出してみても受け取られる気配がなかったので、彼女の手元の辺りに置いた。長い指が、暗い夜をかき分けるようにボトルにたどり着く。意識はあったらしい。
その指がボトルを持ち上げ、緩慢な動きでキャップをつかみ、その表面で指先を滑らせた。封を切ってから渡せば良かったかと思っていると、次の動作でどうにかキャップが回る。
蓋の開いたペットボトルを口元に持っていって、彼女はそれを呷るため顔を上げた。
顔が街灯に照らされて。
突拍子もないような、直近の記憶を雑に繋げただけの想像が正しかったことを知る。
一気にボトルの半分以上を飲み干し、唇の端から水を一筋こぼした目の前の女は、確かにあの雨の日、喫茶店で助けを求めてきた迷子だった。
偶然に驚いた心臓が、落ち着かない早さで脈を打つ。
さっきまで死にそうだった割には勢いよく水を飲んだ彼女は、ゆっくりと顔を下ろした。
視線がこちらに向いて、ぼんやりと見つめられる。
居心地が悪い。
電車の走る音が、遠くで他人事のように流れていく。
「……きっさてんの、ひと……」
呂律は怪しいが、言葉にはなっていたし、目にしたものは認識できているらしい。
「私は……ただの客ですけど」
一応、訂正しておく。
声をかけたものの、何を話せばいいのだろうかと今更迷う。
「知らない人からもらったもの、あんまり迂闊に飲まない方がいいですよ」
言ってから、面白くない上に笑えない冗談だと自分で思う。
「のど、かわいてて……」
「飲みすぎ?」
「たぶん……?」
あまりよくわかっていない様子だった。受け答えはできているから、そこは安心していいのだろうか。
見た目からすると、飲める年齢なのかどうかわからないと思っていた。経験が浅いのに調子に乗ったのだろうか。妙なものを飲まされたとか、そういうことでなければいいけれど。
「吐き気はない? 吐いたほうが楽だったりするって聞きますけど」
ゆっくりと話すことを意識してみる。私自身は吐くまで飲んだことがないのでよくわからない。学生の頃、友人の友人くらいの奴がそんなことを言っていたな、という程度の知識である。
「あんまりない……です」
それならいいのだろうか。対処法らしき対処法は、他に知らなかった。
どうしたものかと思いながら、ふと駅を振り返る。照明が落とされ始めていた。
「終電、さっき行っちゃったけど……帰れるの?」
先日言っていた通りOO駅が最寄りならば、普通に歩いても30分以上かかる。この状態でまともに歩けるようにも見えない。
そもそもシラフであっても方向感覚は怪しそうだ。
「かえっ……れない……」
間にしゃっくりを挟みながら、どこか他人事のようにつぶやかれた。
案の定というか、なんというか……本当に迂闊だ。
住宅街に隣接した駅前商店街なので、一晩越せるようなカラオケや漫画喫茶はない。それ以外にも今から行って泊まれるような施設がある記憶はなかった。そもそも、そういう施設に放り込んだとしてもまた違った種類の不安が残るだけだろう。
ロータリーを眺めたが、タクシーの1台も見当たらなかった。呼んだとしても、自宅の場所をきちんと伝えられるのだろうか。そもそも気を抜けばすぐに眠ってしまいそうに見える。
声を掛けておきながら私の方も混乱していた。どうすればいいのか、冷静に見当をつけられていない気がしてならない。今更ながら、こういうときに取りうる手段をほとんど知らないと気づく。
その上で選ぶことのできる案がないわけではない。
しかし本当にそれでいいのかどうか、決断しかねている。
一日働き、その後も活動していた疲労だって無視できない。暑さはまだ猛威を振るってはいないが、湿気は十二分に不快なレベルだ。
立ち尽くしたまま考え続けることが、億劫にもなってきて。
このままこの子を一人にするわけにもいかないだろうと、妙な焦りも滲んできて。
今できる最大限の覚悟をしてから、腹を決めた。
「……うちで良かったら、来る?」
あぁ、言ってしまった。
肩を貸してみた印象として、彼女は見かけの通り確かに華奢ではあった。
しかし湿気が満ち溢れた空気の中、自分よりも上背のある人間を半分担ぐような調子で帰宅した私は、当然汗だくになっている。
家賃を重視して駅から遠い物件に住んでいることをこれほど恨んだことはなかった。坂道の多い街に住んでいることをこれほどまでに認識させられたことはなかった。
住んでいる部屋は2階とはいえ、エレベーターのある物件で助かったと心底思う。こんな機会は金輪際ないだろうけれど。
靴を脱ぎ捨て、脱ぎ捨てさせ、放っておけばそのまま床にへたり込みそうな彼女をベッドまで持っていった。もう座る余裕もないようで、そのまま横になってしまう。バッグすら肩に引っ掛けたまま。
「ありがと……ございます……」
ぐったりと横になって目をつぶったまま、形の良い唇だけが小さく動いた。
明るい照明の下で見ても、さほど顔は赤くない。ほんのりと頬が赤いくらい。傍目からは酔っているのかどうかわかりにくいと言えそうだ。調子に乗った周りに飲まされすぎたとか、そんなところだろうか。
などと考えながら倒れ込んだ彼女の様子を窺っていると、聞こえるのはすぐに呼吸の音だけになる。
「……寝た?」
尋ねてみても反応はない。あんな様子だったのに、寝息は安らかだ。
私の方は、そのまま立ち尽くしている。
名前も知らない人間を自室に上げたのは初めてだった。酔い潰れた人間を上げたのも、ではあるけれど。
ここからどうすればいいのだろうか。寝てしまったから、もう出来ることはないような気もする。そして汗に濡れた下着がとにかく鬱陶しい。
少し迷ってから、ビニールポーチにスマートフォンと財布、家の鍵を放り込んだ。あとは……通帳くらいか。取り出す動作と手元に置く安心を天秤に掛けてから、それもポーチに押し込む。他に金目のものなんてこの部屋にはない。
シャワーを浴びてしまうことにした。
汗を流し終えただけで気分はかなり落ち着いた。お湯でリセットされた頭が、甘い物を買いたかったなとこの期に及んで思い出す。いっそ忘れたままでいたかった。
リビングへ戻っても彼女は微動だにしていなかった。疑いと心配は杞憂だったといえばそうかもしれない。
相変わらず聞こえてくる寝息は穏やかで、泥酔していた割に寝苦しそうな様子はない。その姿を見下ろして悩んでから、着ているブラウスの一番上のボタンだけ外しておいた。
そしてふと、彼女の手先が目に入る。指が長く、筋がはっきりとして、力強さすら感じさせるような手だった。幼い顔立ちや華奢ですらりとした印象とはどうも異なるような。
その違和感を脳に留めつつ、洗面所に戻って髪を乾かす。ヘアドライヤーの音で目を覚ましてしまうかもと思ったりもしたが、結果的に杞憂だった。
戻り際に冷蔵庫から紙パックのアイスコーヒーを取り出してマグカップに注ぐ。それを持ってリビングスペースの座椅子に座る。ベッドが横目に見える位置。
時計を見れば午前2時すぎ。
テレビを点ける習慣は数年前からなく、無音には慣れていた。
傍らで繰り返される吐息と、時折聞こえる家電のかすかな唸り声。
ベッドは占拠されているし、それなりの非日常に頭はすっかり醒めている。
どうせ明日は休みで予定も組んでいない。
久しぶりに、朝まで読書というのもいいだろう。
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