#4  6月27日 重なる迂闊/迂闊/迂闊

 

 目が覚めて3秒後には、しまった、と思う。


 勢いよく覚醒して、嫌な速度で心臓が動き出す。


 体は座椅子の背もたれにもたれかかり、読んでいた本は腹の上に乗っかっていた。


 慌ててベッドの上を確認すると、昨日の酔っ払い女はまだ寝ていた。よかったというか、なんというか。


 曖昧な記憶をたどってみると、明け方あたりで寝落ちたような気がする。


 改めて時計を見ると朝7時を過ぎていた。


 固まった肩をほぐそうと伸びをしてみる。とてもそれだけでは足りなくて、結局立ち上がってしまうことにした。脚の筋肉にも怠さがこびりついている。点けっぱなしだった照明を消すと、遮光カーテンの隙間から光が差し込んでいた。


 肩と首をまわして、淀んだ感触を追い出そうとしながら流しへ向かう。適当に水道水を汲んで、適当に呷った。味にはもう慣れていて、このカルキ臭さを無味だと感じる。


 一息ついてから振り返ってみる。まだ起きる気配はない。


 洗ったまま乾いていたピッチャーへ水と麦茶のパックを入れて冷蔵庫へ放り込んだ。一応来客ではあるし、水道水をそのまま出す以外の選択肢を用意しておきたかった。

 



 それから結局、彼女が目を覚ましたのは12時を過ぎた頃。麦茶は十分に出た頃だろうか。


 衣擦れの音がして視線を動かす。彼女はベッドの上で目を開けてこちらを向いていた。


 数秒無言で見つめ合ってから、声をかけてみる。


「……おはようございます。もう昼すぎだけど」


「おはよう、ございます……」


 挨拶を返してきた声はがさがさで、驚いたような様子はない。記憶はあるということだろうか。


 彼女が緩慢な動きで身を起こす様子を眺める。


「使います?」


 尋ねながら、用意していたクレンジングシートを差し出した。


「ありがとうございます……」


 もそもそとした動作で化粧を拭う手付きは、どこかぎこちない。


 その間にカーテンを開けて光を取り込む。日当たりが良いのはこの部屋の良いところだ。


 外はいい天気だった。ちょっと暑そうだ。


 化粧を拭い去った後も彼女の顔立ちが幼く見える印象は変わらない。目の下の隈は相変わらずの違和感ではある。


 台所で麦茶をグラスに注いで、ベッドの上に座り込んだままの彼女へ渡す。背中を丸めるようにお辞儀をしながら受け取られた。あっという間にそれを飲み干したのを見て、ピッチャーごと持ってきてしまった。確かに、さぞかし喉は渇いているだろう。


「すみません……」


 繰り返し頭を下げる彼女のグラスへお代わりを注いでおく。


「未成年? あんまり、飲み慣れてないように見えましたけど」


 もしそうでもとやかく言うつもりはないが、飲み方は考えるべきだろう。


「こないだ……20歳になったばっかりで、昨日はじめて……」


 弱々しく、懺悔するような様子だった。そんな様子のところへ責め立てるのも気が引けるし、説教をするほどの仲ではない、と思う。


「二日酔い……えーと、頭痛とか、吐き気は?」


 あれだけ泥酔していたし、とりあえず聞いてみる。


 彼女は「ふつかよい……」と小さく繰り返しながら、頭の中を探るように首を捻って。


「特に……なさそう、です」


 よく分かっていない感じだが、よく分かっていないのならきっと大丈夫だろう。


「むしろなんだか、よく眠れたような」


 呑気なセリフだ。警戒心も何も感じられない様子に、こちらはむしろ不安になってしまう。


「変なもの飲まされたりとか、してないよね」


 心配になる要素はいくらでもある。そもそも並の酔い方ではなかったように見えたし。


「えっと、そういうのは、たぶん大丈夫かなと」


 私の表情が変わらないことを察したのか、言葉を選ぶようにしながら続けた。


「バイト先の人に連れて行ってもらって……でもあの、あんまり話とかできなくて、ずっとお酒飲んでたら」


 ありがちと言えばありがちな流れだった。


「飲んでる間は普通だったんですけど、電車乗ってる途中で変だなって」


 あんな状態から二日酔いになっていないのだから、それなりに強いのかもしれない。


「それで電車降りて、風に当たりたくなって……改札出ちゃって」


「あそこのベンチで力尽きたと」


「はい……」


 どんどん体を小さくしていく。そこまで小さくなれるスタイルが羨ましい。


「まぁ、なんというか、気をつけてね」


 私から言えるのはこれくらいと……あぁ、そうだ。


「一応、貴重品とか大丈夫?」


 もし万が一のことがあって後から妙な疑いを持たれるよりは、という気持ちもあって聞いておく。


 彼女はあっ、と声を上げてから、ベッドの上で丸まっていたトートバッグの中身を確認し始める。


「えっ」


 その一声とともに焦った様子に変わった。他人事ながら、こちらまで緊張する。


 彼女はしばらくバッグを漁った後、周囲を見渡した。嫌な予感がする動きだ。


「あの……家の鍵が、見当たらなくて……」


 どれだけ迂闊なのだろうかと思う。どうやって今まで生きてきたんだ。


「それ以外は?」


「あります……スマホも、財布も」


「どこかに落ちてたりとか……」


 とりあえずベッドの上を探ってみる。使っていないはずの掛け布団の裏まで探ったが見当たらない。隙間に落ちている様子も無さそうだった。


 二人で玄関から台所から、概ね部屋中を探し回ったが、結局見つからない。


「駅まで探しに行くしか……」


 もう一度寝床の周りを調べてから、彼女が落ち着かなげに立ち上がろうとしたところで、ふと思い出した。


「ところで、スマホの充電大丈夫?」


 あっ、と声を上げながら彼女はバッグへ手を伸ばし、取り出して。見たところ数年前の古いモデルだ。


「あと残り、6%……です」


 バッテリーそのものがヘタっているのだろう。


 説教をする気にもなれず、私はため息をひとつ。


「まずは充電していきなさい。その間になにか食べましょうか」


 多少急いだところで今更だし、と付け加えると、真っ青な顔のままうなずかれる。


 今から買い物にいく気力も余裕も無さそうだったので、昼食は有り物のインスタントででっち上げた。彼女の方は食欲も無さそうだったが、こういう時の空腹は余計に悪い方向へいくだろう。


 幸いなことに、用意してしまえば普通に食べていた。顔は終始不安そうだったが。前に会った時からそんな表情ばかり見ている気がする。


 お互いろくに味わうこともなくいそいそと食べ終え、食器を片付けた頃には彼女のスマートフォンの充電もそれなりにされていた。あと半日くらいなら保つのではないか。


 私は大して数もない服から、適当に出かけられる装いを見繕いつつ声を掛ける。


「じゃあ、探しに行きますか」


「えっと、あの、そこまで」


 申し訳無さそうに発されたところへ、私は言葉を被せる。


「駅から帰ってきた道、わかる?」


 迷子になっていたのも記憶に新しいところだ。


「わか……らない、です」


「でしょう」


 まぁ、スマートフォンが充電されていれば自分で調べることもできるだろうけれど。探し物をしながら地図を見る器用さが彼女にあるとは思えない。


「それにここまで関わったら、その後どうなったか気になっちゃうし」


 そう付け加えた。こちらのほうが理由としては大きい。勝手に関わったのは私だが、心配の要素はできる限り残しておきたくない。


「だから、まぁ……あなたが嫌でなければ、一緒に?」


 彼女からすると私の動機や強引さが理解できない可能性もあったので、こちらの言葉も強いままにはできなかった。


「いえその、そうじゃなく、むしろありがたいんですけど」


 なんと言っていいかわからないというように、もぞもぞとした後。


「……ありがとうございます」


 深々と頭を下げられた。まだ早いぞ。





 

 結局の所。


 私の家から駅までの道すがら、目を凝らしてあちらこちら眺めてはみたものの。それらしき物は何も見つからなかった。


 特徴はないのかと聞いたところ、とある有名キャラクターのキーホルダーが付いているらしい。


 そこかしこに目を凝らしつつ、通常の倍ほどの時間をかけて駅までたどり着いた。駅前で彼女が潰れていたベンチの周りも調べたが、なにもない。


 随分時間が経っているし、落としていても残されている可能性のほうが低いと考えていたけれど……見つかればよかったのに、とはもちろん思う。


 今日は後ろではなく、ほとんど隣を歩いてきた彼女は途方に暮れた様子だ。道端で泣き出したりする雰囲気はなくて、同行者としてそれは安心だった。


「とりあえず駅の人に聞いてみようか」


 黙って立ち尽くしていても仕方がない。もしかしたら拾われているかもしれないし、電車の中に置き忘れていて、どこかで回収されているかも。


 ……という希望を持って駅の窓口へ向かったが、情報は得られなかった。連絡先だけ伝えて、何かあったら連絡してほしいと頼んでおいた。


 そして最後の頼みの綱というような気分で、駅からほど近い交番へ向かう。


 彼女が失せ物の概要を伝えると。


「あぁ、届いていますよ」


 お巡りさんはあっさりと頷いた。


 あっさりだった。当の彼女が一番目を丸くしている。


「さっき届いたばかりですね」


 淡々とした対応、そして諸々の手続き。書類を書かされたり、身分証のコピーを取られたり。


 見つかってしまえば呆気ないものだと思いながら。私はやや離れた位置からただ見守るだけだ。


 彼女は何度も頭を下げながら鍵を受け取っていた。一件落着だろうか。


「良かったですね」


 交番を出たところで声をかけてみる。


 意外なことに返答はない。不思議に思って顔を覗き込んでみると、何故かまだ不安が残った顔をしていた。


「どうかしました?」


「えぇと、あの……」


 言いにくそうにしながら、肩にかけた鞄の持ち手を強く掴んで。


「届けられたのが、さっきって聞いて」


 言葉にして実体感を得てしまったのか、不安げな様子が深まっていく。


「時間あったみたいだから……ちょっと、帰るのが怖くて」


 手首を持ち上げて時計を見ると、もうすぐ17時になるところだ。確かに時間の経過具合はちょっと気になった。考えすぎだと一蹴する気にはなれない。


「心配しすぎってわかってるんですけど」


 彼女の心配自体は違和感がないものだ。もっと早い段階でその警戒心を発動できるよう、訓練していってほしい。


 このまますぐ電車に乗れば、彼女の最寄り駅から家まで歩く分を考えても片道30分程度だろう。ここまで来ておいて、下手に放り出す方が落ち着かない。


「着いて行く分にはいいですよ。腕力は頼りにしないでほしいけど」


 職務上、女にしては筋力がある方だとは思う。しかし護身の心得などなく、咄嗟の対処ができる気は全くしない。


「ほんとですか……」


「まぁ、遠いわけでもないでしょう?」


 一応確認しておくと、うなずきが返ってくる。


「ありがとうございます……」


 申し訳無さと安堵がないまぜになったその表情を見ながら。


 拾ったことも見かけたこともない、想像上の捨て犬が脳裏に浮かんだ。


 




 たかが2駅、されど2駅。駅前の雰囲気はガラリと違った。規模が小さいというか、簡素だ。きっとこんな機会がなければ降りることはなく、見ることはなかったであろう風景。


 駅から彼女の自宅マンションまではすぐに着いた。建物入り口のオートロックは、先ほど交番で受け取った鍵で問題なく開く。それは彼女が向かった部屋も同様だ。


 一応、扉を開ける瞬間は私の肩にも力が入る。


「中、確認してくるので……」


 ドアノブに手をかけた状態で振り返った彼女にそう言われる。


「じゃあ、ここで見てます」


 自分のスマートフォンを手にしながらそう言った。もしも何かあったとして、通報する暇があるといいのだが。


 部屋へ入っていく彼女の姿を後ろから眺める。念の為、ドアは大きく開けてそのままだ。


 おそるおそる自宅へ上がっていく彼女の背中に続いて、あまり見るつもりもなかった部屋の中の様子が目に入った。通路部分に積まれた荷物の上には何冊ものスケッチブックや絵の具が見て取れる。更にちらりとだけ見えた奥のスペースには、キャンバススタンドのような……平たくいえば、そこかしこに画材のような物ばかりが目に入った。


 漂ってきた香りも、高校の美術室で嗅いだものに似ている……ような気がした。高校の頃の記憶なんて、もう曖昧だけれど。


 そんな室内の印象は強く残る。絵を描くにしたって、パソコンと周辺機器ではなく画材を揃えるのは今時珍しいのではないだろうか。よく知らないけれど。


 あまりじろじろ眺めるものでもないと思いつつ、役割上よそ見をしているのも違う気がして。うろうろと家の安全を確認する彼女の姿をただ眺めている。


 しばらくして確認を終えたらしい彼女が玄関口へ戻ってきた。


「えぇと、その……大丈夫でした」


 安堵3割、申し訳無さ7割くらいの様子である。


「押し入れとかクローゼットの中とか、確認した?」


 一応尋ねておいてみる。


「はい、そういうところも全部見ました」


「コンセントに変な物刺さってたりとかもしない?」


「えっ」


「盗聴器とかカメラとか、そういうのが本当にあるのかは知らないけど」


 本で読んだことはある。


「確認してきます」


 慌てて部屋へ戻ってバタバタやっている。数分して戻ってきて。


「大丈夫でした」


「そう、良かった」


 実際に何事もなかったのなら私も安心だ。


「すみません、わざわざ来ていただいて……」


 繰り返し頭を下げられる。自業自得な部分も多いが、精神的にも体力的にも一番疲れたのはこの子だろう。


「まぁ、乗りかかった船って言葉もあるし」


 適当な言葉が口から出た。感謝される謂われはもちろんあるだろうが、そうされた時にどう振る舞えばいいかは知らなかった。


「もしなにか……忘れ物とかあったら、教えて」


 そう言いながら電話番号のメモを差し出した。まだ何か迂闊をやらかしていても驚かないし、忘れ物でもあればこちらとしても持て余しかねない。


「今度からは色々、気を付けてね」


 何か言えるかと思ったが、気の利いた言葉は浮かばなかった。


「じゃあ、私は帰りますね」


 長居をする理由もなく、そそくさと告げる。


「はい……本当、ありがとうございます」


 深々と頭を下げる彼女へ軽く手を振った。こういう状況における別れ際の振る舞いがどうにも分からないまま、マンションのエントランスを出て一人になる。


 さっき通ったばかりの道は、逆に辿るとまだ知らない道だ。ここで迷うのはかっこ悪すぎるし、体力も厳しいので間違いたくない。短い距離を慎重に歩く。


 そんな状態だったので、気を抜いて昨夜からのイベントを振り返ることができたのは無事に駅までたどり着き、改札を通ってからだった。


 日常とはかけ離れていた一日。私からすれば信じられないほど目まぐるしくて、思い返せばわけがわからない。


 それでも駅のホームに立っていれば当たり前のように、何事もなかったかのように電車はやってくる。私とあの子の非日常のことなど誰も知らないまま。知られていたとしたら、そのほうが怖いんだろうけれど。


 それでも、たった1時間前までと今との状況の差に、高揚とも不安とも違う奇妙な落ち着かなさを抱えていた。そんな風に足元がぼやけた感覚のまま電車に乗った。


 他にすることもなく、車窓から外を眺める。流れていく家々の合間で日が暮れかけていた。休日が丸々潰れた格好になる。


 疲労感はあった。一体何をしていたんだろうという気分もあった。


 お人好し……というより、流されただけか。刹那的に最善だと思う行動を繋げていったら長丁場になった。それだけといえばそれだけ。


 仮にどこかで切り上げていたとして、漠然とした不安を抱え続ける事になっていたはず。実際、探し物の後半あたりからは私がいなかったとしても何も変わらなかったとは思う。それでも付き添っていたのは半分くらい自分のためだ。


 電話番号は渡したが名前は書き忘れた。彼女の名前も、知るタイミングがなかった。知りたかったわけでもないし、謝礼を求めたいわけでもない。しかし本当に何も残らなかったなと他人事のように思う。


 そしてそれよりもっと明瞭に、疲れていた。かなり長い時間歩き回っていたし、昨日はろくに眠っていない。明日は遅番だから朝早くはないけれど、一晩で疲労を抜ききれるかどうかは怪しい。


 私の頭はぼんやりと出来事を反芻するばかりで、残り僅かな今日をどう過ごそうか考えてくれない。せめて晩御飯のことくらいは考えておかないと後悔するはずなのに。


 何もかも億劫だった。取り立てて不快ではないが、心地良いわけでもない気だるさに身を委ねてしまっていた。


 電車を降りたら、また家まで15分以上歩かなければいけないのだけれども……。



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