幻魚 第13章

 二人は、半同棲生活を始めた。


 今週は、二人の休日が一致するのは日曜日だけであった。


 大樹たいきはアルバイトなので、瑞樹みずきの都合に合わせて、ある程度は調整することも出来た。




 二人は土曜の夜、ついに一線を越えた。




 交わっている最中、大樹は、『薔薇園ばらえん』の中にいるかのような状態になった。




 大量の薔薇に囲まれていたのだ。



 しかし、現実ではない。


 大樹が見ている薔薇は、全て『幻覚』であった。




 『青木ヶ原樹海』でリスが口元に持ってきた『幻覚キノコ』の成分は、大樹の脳や視覚に、今だ影響を及ぼしていた。


 大樹にとっては『幻覚』のようには思えないのだが、実在しないものが視覚的に飛び込んできて、脳裏にその映像を焼き付けている。

 『幻覚』の様相は、『青木ヶ原樹海』に行かなくなって久しい最近、むしろ強烈になってきていた。


 激しくなる『幻覚症状』に比例して、大樹の幸福感は増してくるのだった。



◇◇◇



 魚を調理している時や、食べている時以外も、瑞樹の背後には、ついに四六時中、『魚の幻覚』が見えるようになっていた。




 木曜日、大きいタコの『幻覚』が現れた。




 瑞樹の後ろで、八本の脚を自在に動かしている。




 突然、タコの頭が五倍ぐらいに大きくなっては、元の大きさに戻る。




 タコの『幻覚』は、突如として消えたかと思うと、廊下の方で這っていた。






 部屋の中で浮遊して、まるで泳いでいるかのようなアジ。



 初め一匹だったアジが、いつのまにか、三匹、十匹、三十匹の大群になって、瑞樹の部屋の中が、まるで水族館の『大型水槽』のようになっていた。





 あっけにとられながら、『魚の幻覚』を見ている大樹に、瑞樹が気づいた。


 「どうかしたのか?宙を見て、キョロキョロして。蚊でもいたのか?」


 「え?・・・い、いやあ、な、何でもないよ。」



 このレベルにまで達すると、さすがに自分だけに見えている『幻覚』なのだ、ということを認めざるを得ないと思い始めてきた。


 大樹は、『魚の幻覚』のことだけは、瑞樹にも黙っていよう、と思うのだった。



◇◇◇



 金曜日の夜。


 いつものように、二人は、瑞樹の部屋で魚中心の夕食を摂っていた。





 瑞樹の背後に、『幻魚』の黒い影が見え始めた。





 『幻魚』は、直径五十センチほどの頭を持つ巨大魚だ。


 巨大魚の体長は、二メートルはあるであろうか。


 瑞樹の周りのわずかな可動範囲内で素早く巨体を震わせている。





 『幻魚』が、ゆっくりと大きな口を開けた。





 ガブリッ‼



 瑞樹の頭部全体に、かぶりついた。





 瑞樹は、笑顔で喋りながら、ビールを飲んだり魚をつまんだりしていて、『幻魚』の動きを、全く感じ取っていない。


 大樹は、自分にしか見えない『幻覚』なのだから、自分が気にしなければそれでいいのだ、と思って、見過ごそうとした。





 ガブリッ‼



 凶暴な表情で、瑞樹にかぶりつく『幻魚』。



 目の前の彼氏との優しく心地よい空間を味わいたいのに、『幻魚』の恐ろしい殺傷行為を目の前にしていると、大樹の目には『幻魚』の動きばかりが強烈に飛び込んでくるのだった。




 「・・・で、大樹はどう思う?」


 「・・・え?」


 「えっ、て。・・・なんだよ。聞いてなかったのかよ~。」


 「あ、ああ、ごめんなさい。ボーっとしちゃってて。」


 「はははっ。まあいいか。疲れてるんだろ?今夜はもう、シャワー浴びて寝るか。」


 「ごめんなさい。ありがとうございます。」



 『幻魚』のせいで、コミュニケーションがうまくいかない。


 大樹は瑞樹に申し訳なかったし、悔しかった。



◇◇◇



 その夜の就寝時。


 瑞樹に抱かれた大樹は、眠りに落ちた。


 


 大樹がトイレに行きたくなって目を覚ますと、瑞樹はぐうすか寝ていた。


 瑞樹の部屋の床には、様々な魚がうごめいている。


 まるで、深海だ。


 恐怖に怯えながら、深海を歩き、トイレにようやく辿り着いた。




 トイレの入り口には、大きなタコが立ちはだかっていた。


 タコは、大樹を見据え、にらみつけた。


 タコが大きく息を吸い込んだ。




 ブ―ッ‼


 大樹の顔に、勢いよく墨を吐き出した。



 「うわあっ!」


 大樹は思わず、声を出してしまった。



 パジャマが墨で汚れてしまったのではないか、と胸元を見てみた。



 汚れてはいない。


 当たり前だ。タコは『幻覚』なのだから。




 「ふぅ~。」


 大樹は用を済ませて手を洗い、布団に戻った。




 布団をかけた大樹の真上に、先程の巨大魚の『幻覚』が現れた。


 大きな舌を、ベロリと出してきた。


 その大きな舌で、大樹の顔を、顎の方から額へと、ゆっくりと舐めた。


 ぬめっとした液体の感触を、顔全体に、下から上へと感じた。



 (うわぁっ・・・。)


 

 顔をこすって、匂いを嗅いでみた。


 別に、何かの唾液のような匂いはしない。


 (『幻覚』なんだものな・・・。)





 上から、大量に、丸くて黒くてゴツゴツしたものが落ちてきた。



 (イテエッ!)



 丸くて黒いものが、大量に、顔の上に降って来る。



 (痛い!痛すぎる!助けてくれ!)



 暗くてよく判らないが、針のカタマリのようだ。


 多分、ウニの『幻覚』だ。






 布団を被っているにも拘らず、大樹の身体の上を、大量のヌメヌメしたものが這いずり回っている。


 大樹の首にも、胸にも、へその上あたりにも、太ももにも足にも、足の裏にも、ヌメヌメしたものが、ずっと這いずり回っている。


 大樹は、この感覚に耐えられず、気を失いそうになった。






 ドッスン。


 突如、とても重たいものが、腹の上に乗って、ジーっとして動かなくなった。


 と思いきや、次の瞬間、ものすごい勢いで、大樹の腹の上を蹴るようにしてから居なくなった。


 (今の魚の『幻覚』は、随分と、重たかったなあ。)



 



 バシッ、バシッ、バシッ、バシッ、バシッ、バシッ・・・。


 大樹の尻が、何者かによって、叩かれ続けている。


 痛い、というほどではないが、布団であおむけに寝ているのに、尻を叩かれる感覚、というのは、なぜ起きているのか。






 (熱い・・・。)


 今度は、尻が、熱い。


 もちろん、火など点いてはいない。


 使い捨てカイロよりも、熱くなってきた。


 (このままでは、低温火傷しそうだ。)


 大樹は、自分の尻を触ってみた。


 普通の体温であった。

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