幻魚 第10章

 森實もりざねは、明日の仕事に必要な物を準備し、一泊するのに必要な物もボストンバッグに詰めて、家を出発した。



 ピンポン!


 ドスドスドスドス・・・。

 廊下を歩いて玄関に向かってくる音だ。


 ガチャッ。


 「待ってたよ。どうぞ。」


 「お邪魔します。」


 

 「もうテーブルに用意してあるよ。後はご飯と味噌汁とビールを用意すればいいだけだよ。」


 「今夜もご馳走ですね。すみません。毎回こんな風に夕食に招いていただいて。」


 「さ、今夜は一緒に飲みましょう!俺は白米は食べないけど、森實さんには用意した方がいいよね。」


 「ありがとうございます。お魚とご飯と味噌汁の夕食なんて、幸せです。」



 青島あおしまが、森實のご飯をよそいに台所に行った。


 「森實さーん、ちょっとこっちに来てもらえる?」

 「はい。」

 「このたいのあらいの味噌汁、運んでもらっていい?」

 「わかりました。」


 弱火で温めてあった鯛のあらいの味噌汁を、青島は二つのお椀によそい、森實に手渡した。


 森實のご飯茶碗とビール瓶を持って、青島が食卓についた。




 「森實さんは、独身で一人暮らしなんだよね。夕食、いつもどんな風に食べてるの?外食が多いのかな。」


 「私も自炊が多いです。自炊か、カップラーメンか、というところです。なので、本格的な魚料理は、自宅ではあまり食べられません。スーパーでお刺身を買うにしても、高いですよね?月に一度買うか、買わないかですよ。青島さんに一昨日ご馳走になったような、太刀魚のお刺身なんて、生まれて初めて食べました。」


 「あ、あのさ、森實さんさえよければ、なんだけど、これからも時々、夕食、一緒に食べませんか?俺、一人が長いんだけど、割と寂しがり屋なんだよね。森實さんに美味しい、と言ってもらえると、元気も出てくるし。漁港で水揚げされたばかりの新鮮な魚だから、とても体にもいいと思うよ。俺は、ほとんど毎日、漁港の魚を食べてる。良質なタンパク質は、良い筋肉を作るからね。」


 そう言うと、青島は、上腕二頭筋を屈曲させ、立派な力こぶを森實に見せつけた。


 森實は、ドキドキしながら、おもわず見とれてしまっていた。



 「ビール、注いじゃうね。」


 栓が抜いてあるビール瓶を森實のグラスに傾けて、青島はビールを注いだ。


 「青島さんのは、私が。」


 青島からビール瓶を受け取ると、森實は青島のグラスにビールを注いだ。



 「はははっ、夢が叶った!森實さんと晩酌する夢!かんぱーい!」


 「かんぱーい。」



 カチャッ!



 乾杯の時には、グラスは傾けるだけで、くっつけて音を鳴らさない方が上品だ、ということは、森實も知っていた。

 しかし、青島のそういう、気取らないところにも好感が持てた。



 二人は、グラスを合わせた後、ビールを飲んだ。


 「ぷは~。キンキンに冷えてて美味いっ!森實さんと飲むビールは、格別に美味いなあ!」


 「ははは、青島さん。私もです。」




 「あ、そう言えば、森實さんって、下の名前、何て言うの?」


 「名前は、大きいに樹木のじゅ、と書いて、『大樹たいき』といいます。名はたいを表すって言いますが、あれは嘘ですね。」


 「いや~、いい名前ですね。俺は『瑞樹みずき』って言います。みずは、王偏おうへんやま書いて・・・女の子の瑞穂みずほちゃんのみず、樹は大樹さんと同じ、樹木のじゅ、だよ。・・・森實大樹もりざねたいきさんか・・・本当に、いい名前だ・・・。名前の一文字が、同じ漢字だね!」


 配達伝票に記載された内容を暗記しているので、もちろん知っていたが、大樹は知らなかったことにした。



 大樹は、名前をめられたことなんて一度も経験したことがなかった。


 自分とは合わない名前だから、違和感があったし、恥ずかしかった。


 大樹は、コップの中のビールを一瞬見つめてから一気に飲み干してしまった。


 「うぉ~、いい飲みっぷり!森實さん、森實さんと仕事でご一緒するときには苗字みょうじの方で呼ばせてもらうかもしれませんが、これからは、うちで夕食を一緒に食べる時には、『大樹たいき』って、下の名前で呼んでもいいかな?」


 大樹は、やや涙目になりながら、笑顔になった。

 (大樹なんて呼ばれるの、何十年ぶりだろう。)


 「俺の事も、青島さんじゃなくて、『瑞樹みずき』って呼んでくれよ。な、大樹。」


 「は、はあ。・・・やっぱり、違和感・・・。」


 「ははははは!まあ、そのうち、慣れるだろっ!」


 瑞樹は豪快に笑いながら、色黒のごつごつした大きな右手で、大樹の白くて華奢きゃしゃな左手を軽くポンポンと叩いた。



 「俺はさ、これからも結婚しねえし、子供も作らねえんだ。だけど、時々、一緒に過ごしてくれる人がいるといいなあ、って思う。大樹のような男と、サシで飲めるなんて、俺は今日、ものすごく幸せな気分だ。」


 「それはこちらのセリフですよ、瑞樹さん。温かくもてなしていただいて、感謝しております。お魚もとても美味しい。鯛のあらいの味噌汁も、生まれて初めていただきました。味わい深くて、とても美味しいです。」



 「あ、さっき持って来てくれた烏賊いか、大樹が家に戻っている間に調理したんだけど。どう?烏賊焼き、うめえだろ?七味とマヨネーズ持ってくるわ。」


 そう言うと瑞樹は、七味唐辛子とマヨネーズを取りに行った。



 (立ち居振る舞いが、とても男らしくて、カッコいい。)


 大樹は、瑞樹の一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくを目で追っている自分に気づいた。


 


 瑞樹は、七味唐辛子とマヨネーズとビール瓶と栓抜きを持ってきた。


 「良かったら、これつけて食べてね。」



 シュポッ!


 コポコポコポ・・・。


 瑞樹は大樹の、空いたグラスにビールを注いだ。


 「ええっ、そ、そんな。いいのに。先程さきほどの一杯で。」


 「ばかなこといってんじゃないよ!これからだろ?どんどん、飲んで、食べて!」



 「・・・幸せ太りしそうです。」


 「いーじゃねーかよー、少しぐらい太ったって。美味いもん食って、好きな奴と酒飲んで、人生、いい夢見ながら、楽しくやってんのが一番なんだからよ!」


 そう言って、瑞樹は手酌酒をした。


 「あ、つい手酌しちゃった。いつも一人晩酌だから、クセで。ごめんな。いでもらえばよかったよな。今度空いたら、いでくれる?」


 「あ、はい。気が付かなくてすみません。」



 「いや~。大樹は、いいね。俺、ホント、気に入った、なんて言い方しちゃったけど。大樹の顔、見れないと淋しくなるかもしれないな。」


 そう言うと、瑞樹はビールを一気飲みした。



 「毎日でも、居て欲しいや。」



 瑞樹はグラスを大樹に向けた。

 大樹はビール瓶を取って、瑞樹のグラスに注いだ。



 「あ~、最高に幸せだ~。」



 「烏賊焼き、いただきます。」


 「どうぞ。柔らかくって、美味いぞ~。」



 硬い烏賊焼きしか食べたことのない大樹は、あぶっただけの烏賊が、少し嚙んだだけで口の中で溶けるように柔らかく、スルスルと喉に入っていく感じに驚きながら食べた。


 「ホントだ。随分と柔らかいですね。スッと溶けてしまうように入ってきますね。」


 「美味いだろ?こんなの、毎日食ってたら、他のところで魚買って食うことなんてできなくなってくるんだ。『旭漁港』の水揚げされたての魚の旨さを、思う存分味わってみてよ。」





 すると、瑞樹の背後に、またあの黒い影が見えた。





 棒状の影が、放射状に伸び、一つ一つの棒が魚をかたどってうごめいている。





 いい気分で酔いながら烏賊を食べていた大樹は、黒い影を見て、酔いがめてしまうようだった。



◇◇◇



 「風呂も沸いてるから。俺は明日休みだから、夜中にゆっくり入ればいいから、先、はいんな。制服は、明日の夕方には乾くように洗っておくから。」


 「いいんですか?すみません。ありがとうございます。」

 

 ほろ酔い状態の大樹は、風呂をいただくことにした。

 瑞樹は酔っぱらってしまったようだった。



 (ああ、やっぱり俺の好みだな~。あいつも俺の事を、嫌がってはいないみたいだし、顔も赤くなったりしていたな。寝る時にもう少し話をしてみよう。そして、明日も泊ってもらおう。)



 大樹はゆっくりと風呂に浸かっているようだ。


 少し酔いがめた瑞樹は、食器を洗ったり、食べ残しの皿にサランラップをかけて、冷蔵庫に入れたりした。


 そして、まるで旅館のように、二つの布団をくっつけていた。

 



 「いいお湯でした。ありがとうございました。・・・え、布団が・・・。」


 「いいだろ?二人で泊まった時に旅館で用意されてるみたいにしてみた。」


 大樹は、顔が真っ赤になってしまったが、風呂あがりなので、赤面はバレないかな、と思ったりした。


 

 瑞樹は、台所に行き、麦茶とグラスを取りに行った。


 「風呂上がりに、冷たい麦茶でもどうぞ。」


 テーブルに置いたグラスに麦茶を注いだ。


 「すみません。ありがとうございます。いただきます。」


 「どうぞ。大樹はホントに、礼儀正しい人だね。そういう人が俺、一番いいかな。」


 「礼儀正しい人が、ですか?」


 「うん。一番いい。」


 そう言って、大樹をジッと見つめるので、大樹は少し恥ずかしくなって、顔を赤らめながら、麦茶を飲んだ。


 

 「ご馳走様です。冷たくて美味しかったです。」


 「そう、よかったよ。」



 「ところで、瑞樹さんは、おいくつなのでしょう?私は二十八です。」


 「あ、歳?俺は今三十九。ということは、えっと・・・十一、離れているのか。」


 「そうですね。私は年齢の差は気にしません。」

 大樹なりに、今後の付き合いを見据えている、と伝えたつもりだ。

 

 「俺もさ、大樹がいくつぐらいなんだろうとは思っていたんだけどさ、俺よりずっと若い、という読みは当たったな。おじさんだから、これからもおじさんらしく、振舞ってしまうだろうな。・・・歳を聞いてもらったついでに、俺からも質問しちゃお。・・・その、・・・女性関係って、どんな感じ?不躾で申し訳ないッ!」



 「女性ですか?私は、子供の頃から一度も、女性と付き合ったことはないのです。」



 「高校生の時とかも?」


 「はい。女子に人気のある男子生徒ではなかった、というのもあると思います。」



 「そして、今も、彼女は、いないの?あ、ちなみに、誰か紹介しようってんじゃないからね。」


 「私は、これから先も、女性とお付き合いするようなことはないと思います。」


 「女性には、興味がない、とか。」


 「そういうところです。」



 「う~ん。俺も、そうかなあ。なんかさ、女と付き合いたいっていう願望が湧いて来ないわけよ。女は、男を食い物にしようとする、というのもある。女に裏切られた経験がある男をいっぱい知ってっから。なんか、一人でずっと暮らしていくか、誰かと一緒に暮らしていくんなら、むしろ、信頼できる男と暮らす方がいいのかなあって思ってんだ。」


 「わかるような気がします。私も、女性と一緒になることはないと思います。」



 「お互い、女性不信、かな。はははっ。」


 「私は、女性を信用できないかどうかはわからないのですが、興味がないのです。・・・下着姿の女性を見ても、何も感じません。種類が違う、遠い存在の生き物としてしか思えないのです。心が通じない感じがするのです。一人で好きなことをしている方がいいです。女性に自分の気持ちを伝えたり、会話したりすることは、時間と金と労力の無駄です。女性は、人生には全く必要ありません。女性となんて、楽しく過ごせないと思います。女性と結婚なんて、想像すらつきません。」


 「俺も、女と楽しく過ごすってのはあり得ないかな。俺をおとしめようと、悪いことするんじゃないかって警戒しちまうんだよな。女とは安らげない。俺は女を全く信用していないから、無理だ。あいつらは、男から奪うことばかり考えて、汚らしい策略を練って、真面目で純情な男を騙しても悪いなんて思わないんだよ。汚ねえ生き物さ。見た目が可愛いだの綺麗だの、輝いてんのは若いうちだけ、二十年もすれば、単なる、身も心も醜い妖怪ババアになる。さすがに、醜い妖怪に金は使えねえよ。」


 「ははは。面白いですね、瑞樹さんは。」


 「そうか?兎に角、俺は、女とは結婚したくねえ。」



 「だけど、さっき、一人じゃ寂しいって・・・。」


 「俺は、男と一緒に居たいかな。大樹みたいな。」


 「・・・私みたいな、ですか?」


 大樹は、夢を見ているのかと思った。


 「大樹みたいな、礼儀正しくて、人間的に信頼のおける、五月蝿うるさくない男がいいんだ、俺は。大樹が今夜、泊ってくれるなんて、夢のようだよ。明日からまた一人かと思うと、今から淋しくなっちまうな・・・。」

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