幻魚 第2章

 森實大樹もりざねたいきは、家賃二万七千円のアパートに帰宅した。


 二十八歳の森實は、独身だ。


 恋人もいない。もちろん、子供もいない。


 

 冷蔵庫を開け、キャベツと玉ねぎとソーセージと、一食分だけ残っていた焼きそばを取り出した。


 キャベツの葉三枚と玉ねぎ半分を水洗いして、適当な大きさに切った。


 ソーセージも食べやすいように、二センチ幅に切った。



 カチッ。


 ガスレンジに点火した。


 フライパンにサラダ油をひいて、しばらく熱した後、ソーセージ、野菜の順に投入した。


 具をフライパンに投入した時点で、ボウルとザルとまな板と包丁は洗って水切りかごに置いた。


 ジャージャーと音を出しているフライパンを左手で持って、ふりながら菜箸さいばしで炒めた。


 ある程度火が通ったところで、焼きそば用のそばを入れて、左手でフライパンをふりながら菜箸でかき混ぜた。


 少しだけ水を加え、またかき混ぜ、そばに火が通ったころ、粉末ソースをまぶして、またかき混ぜた。


 火を止めて、焼きそばの完成である。



 焼きそばを大皿によそうと、フライパンと菜箸を洗って、水切りかごに置いた。


 冷蔵庫から麦茶を取り出し、自分で作った焼きそばとともに、テレビの前のテーブルに置いた。


 テレビを点けて、ニュースなどを見ながら、一人、黙々と夕食を摂った。


 森實大樹の日常であった。


◇◇◇


 上司の諏訪部六郎すわべろくろうの死は、父親の愛情に飢えていた森實にとっては、複雑な感情を引き起こさせるものであった。



 森實の兄は、父親の好みのキャラクターだったが、森實はそうではなかった。


 森實を含め、四人家族で夕食を摂る時にも、声が大きく、豪快でガサツな父親は、森實の兄とだけ対話をした。



 父親は森實の方を見ようともしなかった。



 森實の兄の身体には、頻繁にスキンシップをしているのだった。


 肩に手を回したり、上腕をポンと叩いたり、頭を撫でたり。


 森實には、そのスキンシップがうらやましかった。


 自分も同じようにされたかった。


 しかし、森實は、一度もそのようなスキンシップをされた経験がないのだった。


 父親が兄に対して行っているスキンシップを、見せつけられているだけだったのだ。



 なので、家族での食事の時間が、森實にとっては、つらいものだった。


 家族の誰とも対話せず、『ごちそうさまでした』と言った時にだけ、気持ちをかいしない脳天気な母親が『はーい』というだけだった。


 毎回、胸がつかえて、ほとんど食事を摂れなかった森實は、子供の頃からガリガリにせていた。


 家族は誰一人として、森實の気持ちに気付かなかった。




 森實は、家族から愛されていない、と感じながら育った。


 森實は子供の頃、食事中に限らず、透明人間の様になっていた。

 

 


 父親によるスキンシップに、子供の頃から渇望かつぼうしていた森實にとって、体格が父親に似ている諏訪部六郎の存在は、特別なものであった。


 諏訪部のパワハラ的な言動は、暴力的ではあったが、一方で、スキンシップでもあった。


 人格否定や痛み刺激は不快であったが、見方を変えれば、子供時代に最も欲しかった父親によるスキンシップの代わりになっていたのだ。


 森實の父親が、森實を嫌っていたのだとしたら、そのような言葉でもいいから、自分に向けて、ぶつけて欲しかった。


 その意味において、諏訪部の言動が森實の存在価値を認めないものであったとしても、森實にとっては、かけがえのないコミュニケーションだったのだ。




 諏訪部の言動を、味わったことのない父親によるスキンシップに置き換えただけではなかった。


 人生が辛過つらすぎた森實は、一刻も早くあの世に逝きたいと願っていた。


 なので、諏訪部による暴力によって、いっそ、殺されたいと思っていたのだ。



 森實の目玉は、テレビニュースを見ていたが、ニュースの内容は頭に入っていなかった。



 森實の頭の中は、『死に方の模索もさく』で埋め尽くされていた。



 しかし、もしもまだ、諏訪部が生きていたなら、という仮定の方向に思考が切り替えられた。



 諏訪部に、殺されたかった。


 殺されることを、願っていた。


 自分という、父親に愛されなかった肉体を、無残に破壊して欲しかった。


 家族との食卓で、居場所が無かったひさめな自分を、消して欲しかった。


 諏訪部の暴力で、死にたかった。


 諏訪部に、首を、締められたかった。



 森實は、そのような願望のイメージを妄想し始めた。


◇◇◇


 ギュー・・・。


 (きっと、のどぼとけが、バリバリッ、グキグキッ、というのかしら。)




 諏訪部に、首を絞められて、酸素が供給されなくなった脳内。




 遠のいてゆく意識。

 



 恍惚とした表情で、諏訪部を見つめたかった。






 (ねえ、私、今、どんな顔をしているの?少しは、見てくれるかしら。)




 諏訪部の太い指が、森實の首に、さらに喰い込む。




 (あなたは、私を殺せば、幸せでしょう?)




 諏訪部の太い指が、さらに首に喰い込む。




 このような想像すると、森實の下半身がうずいてくるのであった。


◇◇◇


 森實は、テレビニュースを点けながら、まだ妄想の世界に居た。





 バシーン‼



 諏訪部の大きな手が、私の左頬を、力強く、打ち付けた。



 力強く。




 痛すぎる。


 頭全体がしびれて、何も考えられない。



 

 (ねえ、あなた。死ぬ瞬間って、こんな感じ、なのかしら?)




 「うるさいッ‼」


 バシーン‼



 諏訪部の右手の甲が、今度は私の右頬を、力強くたたいた。




 止まらない、暴力。




 (止めないで。そのまま、続けて。もっと『死のふち』を、歩いていたいの。)





 だんだん、耐えがたい痛みが、気持ち良くなってくる。



 もっと、もっと、痛みを。あなたの暴力の全てを、私に、ください・・・。


◇◇◇


 森實は、我に返った。



 もう、諏訪部は、いない。



 森實は、下を向いた。


 父親の代わりの様に思っていた諏訪部が、もういなくなったのだ。




 いなくなったのだ。




 森實の両目から、大粒の涙がこぼれ、ズボンの上に落ちた。





 森實は、子供の頃から、自殺志願者であった。


 子供の頃から、テレビで『青木ヶ原樹海』の特集が組まれていると、目を皿のようにして観ていた。



 しかし、森實が『青木ヶ原樹海』に興味があることに、家族は誰一人気づかなかった。


 森實が、自立した後も、年齢が成人に達したのだから、という理由で、実家からは何の連絡もない。




 諏訪部を失った森實の脳裏には、テレビで見た『青木ヶ原樹海』の様子が浮かんできた。


 「もう、誰かに殺してもらえるチャンスは、ないだろう。今度の二連休にでも、樹海に行こう。」

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