第121話

 空のコップに注いで差し出す、今度は母がそれに口をつける。


「フィリピンの祖母に一度チュニョを会わせたいわ」


 そうしたらいい。ゆっくり父が頷いた。ホー・チ・ミン市はこれからの東南アジアで、上位に位置する成長が著しい地域と目されている。若年層が多いことや、昨今ようやく開かれてきた市場、国民気質が他に比べたら勤労に向いていることが要因である。


 屋台通りと呼ばれる密集地帯は、ひしめくように店が設置されており、間を縫うように人が往き来している。財布をすられないように注意を受けてから、あちこちで料理を口にしてみた。辛味と酸味が強く、旨味や甘味が少ない。屋台ではどれもこれも格安で八千ドン(四十円弱)程で好きなものが食べられた。


 ――気温や湿度の関係なんだろうな、悪くはないが、慣れなきゃいま一つだ。


 そうは感じても嬉しそうにあれもこれもと教えてくれるニムに不味いとは言えない。次に手を引かれて行った先は商店街で、日用品というよりはデザインやらファッションが目立つ、若者の御用達といったところだろうか。


 ちょっとしたネックレスなど、現地人には見るだけしか出来ないような金額が提示されていたりした。視線を追ってみると指輪のところを見ているようだ。


「どれを見ているんだい?」


「え、いえ。何でもないです」


 そう拒むニムを連れて近くに寄ってみる。そこには宝石がついた指輪が飾られており、四億ドンとゼロがわからなくなる程綴られている。ベトナム人の月収が凡そで四百五十万ドンなのを考えたら、それは決して手にはいるような代物ではない。


「見るだけ見てみよう、おいで」


 強引に入店すると、店員の女性が接客をしてきた。


「あそこに飾られてる指輪、着けさせてみて貰えないだろうか」


 ニムがヤダヤダと首を振るが、店員がにこやかに持ってくると彼女に嵌めてみる。


「まあぴったり」


 それはそうである、ベトナム人に合うサイズで並べてあるのだから。


「本当だな、ニムに似合ってるよ」


 少しだけぼーっとしていたが、すぐにお返ししますと店員に突き返してしまう。


「何だあまり気に入らなかったか?」


「そ、そんなことありません! 最高の物ですし、綺麗でいいなとは――でもあの金額ですよ!?」


 店員も笑ながら、お手頃なのも御座いますよ、といつもの台詞を口にしようとした。


「よし、じゃあそれをくれ。支払いはアメックスで良いかな?」


 さらっとそう言うものだから、店員が少々お待ちくださいと店主を呼びにいく。すぐに年配の男性が出てきて、間違いないかと確認する。


「ああ、妻にぴったりだからな。似合うと思わないか?」


「そりゃもう奥様の為にあるようなものでして。どうぞこちらにお掛けになってください」


 カードに不正情報が無いかを確認し、全く問題がないとカード会社から返事が得られると、店主が小躍りして決済した。


「こちらにサインを」


 書き慣れたイーリヤとスペイン語でサインする。文字が良くわからなかったが、産まれてから最高の笑みで指輪を手渡した。


「うむ。ニム、手を」


 ドキドキしながら出した手に指輪を嵌めてやる。


「素敵――」


「俺からの結婚祝いだ。あの時はドタバタしていたからな」


 何故か店員一同が拍手でそれを祝ってくれた。店を出てからも姿が見えなくなるまで拝まれてしまい、笑いが込み上げてきてしまった。流石にニムも店員らの姿を見るとつられて笑ってしまう。


「本当に良いのですか、こんな高価な品をいただいて」


 高額すぎて不安が拭えないで尋ねてしまう。


「勿論構わんよ。ようやく俺も幸せに縁が出来たんだ、何にも心配はない」


 腕に絡み付いていたニムを軽く片手で持ち上げると、そのまま胸の前に寄せて腕に座らせて歩く。男性でも百五十五センチ位の身長しかないため、島と同じ視線だと巨人になったかのような錯覚を覚えた。


 ――ま、十年もしたら貫禄もつくだろう、お互いにな。


 三十一歳になった。世間ではようやく仕事を覚えて、一人前になるかどうかの頃合いである。主任やら係長になったと感動する同級生も幾人もいるだろう。


 ――御子柴のやつも今年辺り一尉に昇進だろう。


 何だかんだと昔からの悪友と言われてから浮かぶ顔は一人しかいなかった。


「どうしたんです、なんだか嬉しそうに笑って」


 心ここに在らず。そんな表情をしていたと指摘される。


「ああ、ちょっとね。夜のことを考えてたんだ」


「よっ……」


 顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。それを見て、島は気持ちよく声を出して笑ってしまった。専用の場所でご休憩を挟んだ後、少しばかり遅めに開いているスーパーマーケットに立ち寄り買い物をして帰宅する。


 敏感に気配を察したのだろう、チュニョが泣き出してしまう。それを聞いてニムが奥へと行ってしまった。少しすると子供を抱えて戻ってくる。


「お部屋へいきましょう」


 荷物もまるごとニムの部屋に置かれている。それは客ではなく、夫婦として義父母がみてくれている証拠だ。島が軽く引っ提げてきたスーツケース、きっと重かっただろう。


 必要最低限とは言え、軍服やら書類やらが余計に詰まっている。重要なものは一切入れてないが、勲章などはまとめてケースに保管してある。


 ――これからはそんなのも新居に置いておけるな。


 長い流浪の旅も終わりを告げるだろう。ふと思い出す。


「なあニム。前に料理店を開きたいと言っていたが、今はどうなんだ?」


「チュニョに手が掛からなくなったらやりたいわ!」


 でも二人目も欲しいかも、等と悩んでしまった。


 ――子供は何人居ても良いものだからな!


 意思を確認して床についた。遠くはない未来、どこに出店するかを話し合ってみようと決めて。グエン・ホアン家に義父の親族が集まって歓迎会が開かれた。主賓は島である。


「飲みなさい飲みなさい」


 人が良さそうな爺が並々と注いでくれたのを一気に飲み干すと、歓声がわいた。男たちが馬鹿みたいに騒いでいる隣で、女たちが別の話題で盛り上がる。


「ニム、男なんてのは最初にビシッと言ってやらなきゃいけないのよ」


「――はい」


 消え入りそうな声で返事を繰り返す。叔母方に何と言われようと黙って頷く。こんな風景は世界共通の世代順送りである。


「大体にして外国人がベトナムでどんな仕事が出来るのよ」


「――ええ」


「ちょっとニム、聞いてるのかしら?」


 幾分かアルコールが入り声も大きくなる。苦笑して叔母さん落ち着いて、と宥める。


「旦那様は大丈夫ですから」


「どう大丈夫なのよ。これからとは言っても、この国はまだまだ貧しいのよ」


 さっきまでは外国がダメと言ったにも拘わらず、今度はベトナムが貧しいと喚く。


「叔母さん、少し横になったほうが」


 義母が間に入って宥める。


「ここはあたしが片付けておくから、先にお休み」


「でも義姉さん――」


「良いから」


 小さくため息をついてから渋々承知すると、奥の客間へと消えていった。そんなやり取りはお構いなしに、男共が盛り上がる。


「――で、龍之介君はどうなんだね」


 仕事で上司がどうだと散々文句を並べて話を振ってくる。


「今のところは一回だけですね、とんだ上司に当たったのは」

 ――あの外人部隊少尉だけだ。


 つまみを口にしながら、先程の叔母の夫、つまりは叔父が続ける。


「そんな上司にあたったらだ、辞めてやる! ってぶん殴ってやればいい」


「叔父さんも少し飲みすぎでは? どうぞ先にお休みになってください」

 ――おいおい、軍法会議にかけられちまうな!


 只で酒が飲めるとガバガバ空けるものだから、量が半端ではない。妻への愚痴も混ざっているが、叔母はもう退場しているため言いたい放題である。だが義父は実の妹のことだけに何とも反応しづらかった。


「そうだ、龍之介君も地域の集まりである、ベトナム郷土会に入らないか?」


 何とか話題を変えようと努力する義父の後押しにかかる。


「それはどのような会でしょう?」


「まあ互助会のようなものだよ。例のあれだ、災害があった時などはこれが機能する」

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