スノードロップ

軍艦 あびす

スノードロップ

 もうすぐ死ぬ人間にどれだけ金を使うのか。

 捻くれた思考だと分かってはいるが、結局そういった疑念が浮かんでしまうのも無理はないと思う。

 

 祖父が嫌いだった。正月だとかに珍しく親族が集まったというのに、誰一人として興味のない話を何度も繰り返し、集まった面々が次々と苦笑いをこぼす。そんな空気が、嫌いで嫌いで仕方なかった。聞き分けのない子供を見ているようで、気分が悪かったのだ。

 

 

 そんな、祖父が死んだとき。残念なことに、涙は出なかった。しかし、必死で泣こうとしていたのは、自身が悲しもうと思ったからではない。身内からの視線が痛かったから。

 嫌いな人間相手には、ここまで卑屈になれるのだなと思い知らされた。ただ、不思議と申し訳なさは湧いてこなかった。

 

 どうせ死ぬのに。何をしたって死ぬのに。

 医療機関、食べ物、酒、旅行、趣味、交通費、どれもこれも。

 葬式と墓は、まぁ仕方ないか。

 

 

 なんて、これは自身が祖父を嫌っていたから生まれた戯言だったのだろう。どれだけの金をドブに捨てようと、未来は変えられないと信じていたから。

 


 雪音由落ゆきねゆら。同じ発音を頭に構えた、その名に恥じぬ雪のようにお淑やかな女性。

 彼女はゴチャゴチャとした器具を身体中に巻き付けて、簡素な白のベッドで呼吸を繰り返している。

「由落、なにか食べたいものとかあるか」

「えー、いいよ。秀治しゅうじくんも忙しいんでしょ」

 残された命なんてもの、語られても理解できなかった。受け入れられずに、ただ唖然と同じ時間に囚われる感覚だった。

 八年前の六月。ジューンブライドに憧れて、彼女と籍を入れた。彼女に自身の姓を渡して、家族になったのだ。

 

 

 どうしてこうなったのか。なんて、探しても意味のない答えを延々と追い求める。だが、幼き頃の自身がただ自己中心的で我儘な阿呆であった事だけは、簡単に分かる。

 すぐ死んでしまう人間に金を使うのは無駄じゃないか。だと。あまりに酷すぎる思考だ。例え自身が嫌っていた存在だとしても、軽率な言葉に身体中が寒気を帯びる。それじゃあ、いつ死ぬか分からない我々が金を使い生き続けることにも意味はないんじゃないかと二日ほど問い詰めてやりたいくらいだ。

 

 面会を終えて病室を後にする。二ヶ月ほど見たこの扉も、今まで何人の涙を見てきたのだろうか。自身がそのうちの一人になる覚悟は、まだ無い。

 謙虚な彼女は、きっとまた言う。子供の頃の自身と同じように、勿体ない、もっと良いことに使って、と。

 自身は、彼女のそんな姿を好きになったのだ。それが今になって、こんな形で再現されるなんて。きっと悪魔にでも憑かれているのだろうと、悪い夢だと、そう思いたかった。

 

 

「ただいま」

 簡素な一つの玄関口に声を響かせ、待ち侘びたような返事に作った笑顔で脚を進める。

 今年小学校に入学したばかりの秀斗しゅうとが、バタバタとこちらへ向かってきた。

「おかえりパパ!」

「あぁ。すぐに風呂沸かすからな」

 由落が生活の色を消してから二ヶ月、秀斗には一人の時間を増やしてしまっている。互いに両親は遠くに家を構え、託児所も遅くまでは面倒を見てくれないのだ。

 とにかく秀斗を待たせまいと、スーツを脱いでスポンジと洗剤を手に取り、浴槽へ向かった。

 

 

「ねぇパパ、ママいつ帰ってくるの?」

「うーん、もうちょっとかかりそうだな。寂しいのか?」

「ううん、全然」

 小学生男子の、甘え下手な言葉。本当は寂しいだろう知っているぞ、なんて、この子のプライドを考えれば言ってあげないのもアリかもしれない。

「じゃあママが帰ってきたら美味しいもの食べに行くか。何が良い?」

「うーんじゃあねー、ハンバーグ!」

「ハンバーグか。お腹空いてきたな」

 ごめん由落。純粋無垢な秀斗には本当のこと話せなかった。本当はもうママは帰ってこれないんだ、いつ会えなくなるかも分からないんだって、この子に言う勇気は俺には無い。


 蒸気に満たされた狭い風呂場。この空間が狭くなったなと感じるより前に、更なる空虚が待っているのだ。せめて秀斗の卒業まで、あと五年と半分。こんな簡単なことが叶わないなんて、我々一家が何をしたと言うのだろうか。

 

 

 レシピアプリの見よう見まねで作ってみたポテトサラダ。食卓に並ぶのは二日目だが、秀斗は美味しいと言ってくれている。毎日料理してたらここまで上達したんだぞ、と。由落にも食べさせてあげたいな、なんて理想を並べてみた。

 汚い食べ方はどうにもならないらしいが、作ってる側からすれば、子供から美味しいと言ってもらえるだけでありがたい。由落の気持ちも、少しは理解できたのだろうか。

 

 

 

「もうすぐ夏だけど、どこか行きたいところとか。医者の許可が降りる範囲になるけど、どこでも言ってくれ」

「別に良いよ。それより今度秀斗の参観あるでしょ、私の分まで見てあげて」

 また、彼女は語る。まるで自分は最初から存在してませんと言わんばかりの羅列を、淡々と語った。彼女の望むことに反対したいが、やはり大事をとって出掛けたりはしない方が良いのだろう。

「先生から聞いたんだけどさ。私から伝えたいからって黙っててもらったんだけど」

「なに、何の話だよ?」

「なんか、あと一週間ないらしいよ」

 

 

 現代医療を大袈裟に表して、不治の病なんて存在しないと語った者たちを一人ずつ殴り倒してやりたい。行き場のない怒りなのか悔しさなのか何なのか分からない感情は、ただ思考を延々と動かす燃料と化していた。

 由落に残された時間は、あと一週間もない。そんな急に言われても、理解が追いつくはずもないだろう。三十を超えた男の消えない動揺は、無限に身体を蝕むばかりだ。

 

 もっと美味しいものを食べさせてあげたい。

 もっと色んなところへ三人で遊びに行きたい。

 もっと、もっと二人の笑顔を見ていたい。

 

 

 無力だなぁ、と。

 きっと、歪な感情を祖父に向けた自身への罰なのだろう。消えゆく命にかけられた金を無駄だなんて思ってしまったから、当然の報いなのだろう。

 由落の頼みを断ったりしたら、最後の最後に彼女を悲しませてしまう。だからって、何もない孤独な病室で最後を迎えるのはあまりにも辛すぎるのではないだろうか。

 彼女の両親にさえ、合わせる顔がなくなってしまいそうだ。

 

 

 

「じゃあこの問題、雪音くん」

「十二です!」

「よし、正解!」

 土曜日の午前。教室を満員にして開かれた授業参観。簡素な計算の羅列が並び、淡々と答える我が子を見つめる。

 つい最近まで、遊ぶことしかしていなかったのに。立派に成長した姿を、由落にも見せてやりたかった。なんて、まだ言っている。

 せめて映像に収め、帰りに病院へ寄って見せびらかそう。昨日の浴槽の中で、秀斗とそんな笑い話をしていた。

 

 

 

 学校からの帰りに、近所のファミレスで秀斗と向かい合う。これも由落の言う通りになってしまったのだ。帰りに何か食べてきたら、なんて、そんな寂しいことを言わないでほしかった。

 ママが帰ってきたら食べに行こう、そう約束したはずなのに、今ここにいるのは諦めからだろうか。真実を我が子に明かさないことで、遠くないうちに襲う悲しみを隠し通せるわけもないのに。

 フワッと溶けるようなハンバーグも、まるでタイヤを食べているかのように感じる。残された短い時間を、彼女の言う通りにして過ごしている。

 きっと由落は秀斗に会いたくない訳ではなく、迫る死に畏怖を抱いた顔を見られたくないのだろう。謙虚な性格だが、そういう面は見せたがらないのは知っている。

 なんて、味のひとつも分からなくなった自身の右側を、よくある振動が襲った。光を放つ文字の羅列に、数秒間眼を閉じる。

 

「食べ終わったら、ママのところ行こうな」

 

 

 今まで秀斗に黙っていたことは、本当に申し訳ないと思っているし、自分の弱さが招いた結果だ。覚悟も無しに突然現実を叩きつけるのは、あまりに残酷だと自身でも分かる。

 大きくなったと思っていた身体も、抱きかかえてみればあの頃となんら変わらない。ただ一途に、毎日見ていた扉へ向けて息を切らした。

 

「十三時二十五分です」

 看護師の一言に、全身に篭っていた力がすぅっと抜けていく感覚に襲われる。抱える秀斗を下ろして、息を荒くした。

 

 綺麗な顔だな、と。

 初めて出会い、ここに至るまでの全ての表情を詰め合わせたような。彼女はきっと、満足していたのだろう。

 今後生き続ける自身と秀斗の為を思ってか。彼女は、その命が枯れ果てる目の前まで我々のことを思ってくれていたのだろうか。

 結局、授業参観の映像も見せられなかった。

 秀斗に、三人でハンバーグ食べに行こうって言ったのに、さっきあの場に由落は居なかった。

 

 

 やっぱり本当に、無力だ。

 彼女の語る、別に良いよ。なんて言葉、強がりだって分かってたのに。

 何も出来なかった自身へ何を咎めようと、もう遅い。残念ながら、何も手元に戻ってこない。

 

 

 消えゆく命に使う金は必要だろうか。

 

 本当にくだらない言葉だな。と思う。

 

 とっくに気付いてた筈なのに、何も出来なかった。

 

 

 

 その日は、とりあえず自宅へ帰った。

 泣きじゃくる秀斗の顔は見たことないくらいに歪み、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。

 これも、自身のせいだ。

 伝えることを恐れた自身が招いた、秀斗の絶望だ。

 そんな息子に精一杯の謝罪を向けて抱き締める自身は最低な父親として彼の目に写っているのだろうか。いや、そうに違いない。

 

 

 彼女と同じ姓を分かち合い。

 彼女は雪音由落と名乗る。

 自身は、彼女を落ちる雪にしてしまった。

 

 

 スノードロップ。

 

 花言葉『希望』

 

 

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 『死』

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