第868話 朝から夜に

 明奈さんの持ってきてくれたオレンジジュースを飲んでいると、俺と腕をくっつけて座っていた綾奈に、俺が数日前から考えていたことを伝えるべく綾奈に声をかけた。

「ねぇ、綾奈」

「なぁに真人?」

「いつもの早朝ランニングだけどさ、夏のあいだだけ夜にしない?」

 俺が考えていたこと、それはさっき言ったように、ランニングをする時間帯を変更することだ。

「え?」

 綾奈は驚いているけど、二年生の初日に俺が言った『ランニング途中の休憩時間を減らす』よりもリアクションがちょっと薄いな。

「これからさらに暑くなって、汗の処理も大変になるだろ? 汗だくで帰って、シャワーを浴びたくなる。俺たち、朝は余裕を持って動いているけどシャワーの時間を考えるとちょっとバタバタしてしまうと思うんだ」

 俺はそれ以外にもうひとつ時間に関して心配ごとがあるけど。

「うん」

「走るのを夜に変えれば、帰ったらすぐにお風呂に入れるし、朝よりも時間には余裕があるから走る距離、そしてイチャイチャする時間も多く取れるって思ったんだけど、どうかな?」

「私は賛成だよ。その、私もそのこと、ちょっと考えていたから」

「そうだったの?」

「うん。真人と朝一番に会えないのは、やっぱりちょっと寂しいけど、時間がないと、ランニングもイチャイチャも中途半端になっちゃうから」

 早朝に俺に会えないってちょっとしょげるかと思ったけど、なるほど同じことを考えていたからそれについてのショックはなかったってことか。

 というか久しぶりに俺たち夫婦の以心伝心が発動したな。

 好きな人と同じ気持ちだったってのは、どんなことでも嬉しく思う。

「じゃあ、六月に入ったら夜に走ろうか」

「うん」

 来月からは夜にランニングをすることが決まった。

「ありがとう綾奈。これで朝はゆっくり弁当を作ることができる」

 俺のもうひとつの心配ごと……それは弁当を作る時間がなくなってしまうことだ。

 朝のランニングとイチャイチャ、帰ってシャワー、そして朝食と登校の準備が重なると、どうしても弁当を作る時間が足りなくなる。

 自分で作ると言った手前、母さんにまた頼るのもちょっと申し訳ないし、俺自身作りたいって気持ちもあるから……。

「そっか。真人は自分でお弁当を作ってるんだよね」

「そうだよ」

 その確認をすると、綾奈は考えごとを始めて、何やらぶつぶつと呟いている。

 真剣に何かを考えているお嫁さんも可愛いし、それでも俺とくっつくのをやめない綾奈が愛しくてたまらない。

 一分ほどで考えがまとまったららしい綾奈は、俺にある提案を持ちかけた。

「ねぇ真人。お弁当なんだけど……」

「うん?」

「私が真人のお弁当を作るから、私のお弁当を、真人が作ってくれないかな?」

「え?」

 綾奈の弁当を俺が?

「真人が自分でお弁当を作ってるって聞いた時から、そのお弁当を食べたいって気持ちがどんどん強くなっていって、それに真人が作った卵焼きを、杏子さんと香織ちゃんは食べたことがあるって杏子さんから聞いて……」

「ふたりをずるいと思ってしまった?」

 綾奈はこくりと頷いた。

「真人の妻の私も、真人の作ったお弁当を食べたい」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、俺の作る弁当……おかずの半分は冷食だよ?」

 ちゃんと作ってるのは卵焼きと日によって違うもう一品くらいだ。綾奈の気持ちはめちゃくちゃ嬉しいが、そこまでの熱量を向けてくれるに見合った物は作れないと断言できてしまうのが悲しいところだ。

「それでも食べたい!」

 綾奈はずいっと俺にその可愛すぎる顔を近づけてきた。少し体を動かせばキスができてしまう距離にドキドキする。

 どうやら綾奈は何があっても譲る気はないみたいだ。俺の弁当をそこまで食べたいと言ってくれるのなら、これ以上何かを言うのは野暮ってもんだな。

「わかったよ。じゃあ綾奈の弁当、俺が作らせてもらうね」

「ありがとう真人! 私も真人のお弁当、愛情込めて作るからね」

「綾奈の愛妻弁当が毎日食べられるとか幸せしかないんだが」

「えへへ♡」

 まだ結婚していない、高校生の段階で愛妻弁当を食べられる日が来るなんて思ってもみなかった。これは毎日がさらに楽しみになるな。

 そうと決まれば綾奈の弁当箱を受け取ろうかと思ったんだけど、綾奈はあの小さい弁当箱では量が足りなくなってきて、新しい弁当箱を買う予定というのを言っていた。

 綾奈、以前とは比較にならないほど体力と筋力がついたからな。たくさん食べられるようになったのはいい傾向だ。

 それで、明後日五月三十一日の水曜日の放課後、部活が休みなのでふたりで弁当箱を買いに行く約束をした。

 お互いの弁当を作る……交換日記ならぬ交換弁当とでもいうのかな? は、六月一日からスタートとなった。

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