第764話 願いを叶えに

 俺と綾奈の夫婦デュエットが終わってからしばらくして、雛先輩が立ち上がり移動を開始した。テーブルとみんなの間をカニ歩きで奥……モニターがある方へ進み、狭い通路を脱してモニターのそばに来て、今歌っている千佳さんの邪魔にならないようにしゃがんで移動し、俺の前に立った。

「真人君。隣、いいかしら~?」

 まさか、俺の隣に座るために移動してきたとは……。

 俺は断るつもりはないけど、念の為に綾奈を見ると、綾奈は笑顔で頷いた。

 俺も頷き返し、雛先輩を見て言った。

「はい。もちろんですよ。どうぞ」

 俺の側に座っているみんなは一人分移動し、雛先輩は空いたスペースにゆっくりと腰を下ろした。

「ありがとう~。真人君が私ともっと言葉を交わしたかったっていう願い、叶えにきました~」

 それは三月末。雛先輩を見送りに駅に集まった時に俺が言ったことだ。

 風見の文化祭で知り合い、わずか五ヶ月で雛先輩が卒業して、その間に雛先輩とあんまり喋れなくて……雛先輩は俺の恩人のひとりだから、なんだかそれはあっさりしすぎているし、ちょっと寂しさに似たような感情もあったのも確かで、俺はそう言ったんだ。

「覚えててくれたんですね」

「もちろんよ~。あれは忘れられないわよ~。だから、綾奈ちゃんが許してくれる範囲でいっぱいお話してくれると嬉しいわ~」

「だ、大丈夫です雛さん。お話するだけなら私も止めたりしないですから」

 そうは言ってるけど、ちょっとソワソワしている気がする。

 雛先輩は一度俺にハグしてるから、さっき駅であんなことはもうしないと約束してるけど、心の奥底ではやっぱりちょっと不安なんだ。

 俺ももう土下座はしたくないので、大丈夫だとは思うけど対応できるように意識しておこう。


「雛先輩。向こうでの生活は慣れましたか?」

 やっぱり気になるのは雛先輩の近況だ。多分駅で一度別れてからここに来るまでに、茉子たちに同じ質問をされたと思うけど……同じことを言わせてしまうのに若干の申し訳なさを感じるけど、俺も知りたいのだ。

「そうね~。学校に行きながら家のことをしなくちゃいけないのはやっぱり大変で。でもちょっとだけ慣れてきたわよ~」

「雛先輩は高校出るまで、ご実家で家事をしてたんですか?」

「してたんだけど~、それでも数ヶ月前からで、お母さんに色々と叩き込まれたから、なんとか生活できてるって感じね~」

 まぁ、家事ができなくて一人暮らしを始めたら、家の中は荒れ放題になるし、洗濯物も溜まるし、食事もコンビニ弁当やインスタント、冷凍食品が中心になって栄養にも影響しそうだもんな。

「そうなんですね」

「お料理の腕はまだ真人君に負けちゃうかしらね~」

「え?」

「真人君、自分からお料理をしてるし、綾奈ちゃんや美奈ちゃんのお誕生日にケーキを作ったってマコちゃんから聞いたのよ~」

 なるほどな。どうやらここに来るまでの間に、茉子や健太郎、そして千佳さん辺りに俺のことを聞いていたみたいだな。

 健太郎を見ると、俺の視線に気づいたのかにこっとイケメンスマイルを向けてきて、茉子に視線を移すとちょっと驚いていた。そして微かに頬が赤くなったような……気づかなかったフリをしておこう。

「でも俺もまだまだですよ。綾奈の誕生日に作ったガトーショコラも、ホワイトデーで作ったクッキーやマドレーヌも翔太さんと拓斗さんに見てもらって、美奈の誕生日ケーキは綾奈との合作でしたけど、綾奈の足を引っ張ってしまいましたし」

 綾奈と肩を並べられるくらいには、料理の腕を上げたいと思ってる。また夫婦共同で何かを作るとなった時に、少なくとも足でまといにはならないくらいには……。

「ん~、でも真人君からもらったクッキー……とっても美味しかったわよ~」

「私も、ガトーショコラもマドレーヌも、他にも真人の作ってくれたお料理は全部美味しかったよ」

「ありがとう綾奈。雛先輩も、ありがとうございます。これからも頑張ります」

 このふたりは俺の作るものなら大抵は高評価をくれそうな優しいふたりだよな。綾奈なんて冷食を炒めたものでさえ美味しいと言ってくれるし。

 だけどやっぱり褒められると嬉しいのは確かだ。いつかマジで綾奈やみんなの舌をうならせられる一品を作ってみたいものだ。

「うふふ。じゃあ、また真人君のお料理を食べれる機会があると思っていいのかしら~?」

 家族以外に手料理を振る舞う機会か……。いつだろうな? なんかまたホワイトデーになりそうな気もしないでもないけど。

「そうですね。機会があれば、その時は全力で作らせてもらいますよ」

 来年のホワイトデーなら、今年のよりもマシなものを作れるはずだから、時間があると思って余裕かまさないように、しっかりと、着実に腕を磨いておかないとな。

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