第717話 久しぶりの嘘

 俺は驚いて返事をするのに数拍遅れた。

 八雲さんは同盟のメンバーで、当時から俺を嫌っていたし、今日の昼休みにも俺をディスっていたことを綾奈からのメッセージで知っていたから、驚いているのはそこじゃない。

 綾奈が、八雲さんを苗字で呼んだことに俺は驚いていた。

 二人が一緒にいる場面は、当時けっこう見た。部活中は当然、八雲さんが俺たちの教室に来ることもしばしばあった。

 八雲さんは部活や休憩中は綾奈の隣にいて、綾奈もいつも、八雲さんを『夕姫ちゃん』と呼んでいた。

 その綾奈が名前呼びから苗字呼びにランクダウンするなんて……八雲さんは綾奈にどう俺のことを伝えたんだ?

 わからないが、綾奈のこの反応を見るに、やっぱり綾奈が八雲さんにキレたと考えるべきだ。

 そうじゃなかったら、あの誰にでも優しい綾奈が急に冷たくするなんてありえない。

 ……昼休みが終わるギリギリでメッセージが届いて、その文章では『夕姫ちゃん』と書かれていたけど、時間がなかったから、名前呼びをしていた癖でそう送ったのかもしれない。

 綾奈はまだ俺を心配そうに見つめている。自分のいない間に八雲さんが俺に悪口を言ってないかを本当に心配してくれている。

 そして八雲さんを見ると、彼女は下を向き、怯えたような表情で、右手で左の肘を持ち、少しカタカタと震えていた。

 きっと八雲さんは、綾奈にまた怒られることを……そして怒った綾奈に、もしかしたら拒絶されるかもしれないのを恐れているのかもしれない。

 あれだけ綾奈を慕い、仲の良かった憧れの人から拒絶されるかもしれないと思ったら……うん、怖い。

 だけど俺は言うまでもなく、綾奈の一番の味方だ。だから綾奈から聞かれたら報告はしないとな。

 俺は抱きつかれてない方の手を綾奈の頭に置き、優しい笑顔を作ってこう言った。


「いや、何も言われてないよ」


 俺は、すごく久しぶりに自分の意思で綾奈に嘘をついた。

 そしてこの報告が嘘であるのを知っている後輩四人が、驚いて息を呑むのが聞こえた。

 横目で見た八雲さんは、目を見開いて俺を見てるし。

 別に八雲さんの味方をしているわけじゃない。さっきも言ったが、俺は綾奈の一番の味方だ。

 もし俺がここで本当のことを言えば、綾奈は八雲さんを本当に拒絶し、突き放すかもしれない。

 優しい綾奈がそんなことをするとは考えにくいが、あんなに……姉妹のように仲の良かった綾奈と八雲さんが仲違いをしてしまうのは嫌だ。

 綾奈だってキレたとはいえ、本気で八雲さんと絶交するのは望んでないはずだ。

 だから俺は、たとえ好きで大好きで心の底から愛しているお嫁さんに嘘をついてでも、二人の仲を壊す真似なんてしたくない。

 それに多分、八雲さんは合唱部に入るはずだ。場の空気が悪くなれば、今年も全国で金賞を狙うのも危うくなるかもしれない。

 俺は高崎に勝ちたい……万全の高崎に勝ちたいんだ!

「実は俺たちが駅に着くと、ナンパされてる八雲さんを見つけてね。そいつは追い払ったんだけど八雲さんは恐怖で震えてて、俺の正体も今さっき知ったから、お礼以外は何も言われてないよ」

「あ、やっぱり真人だってわからなかったんだ……ってか夕姫あんた、ナンパにあってたん!?」

「あの……えっと……」

 千佳さんは八雲さんへと駆け寄り、心配そうに八雲さんの両の二の腕辺りを掴んだ。

 綾奈も八雲さんがナンパにあっていたのを知って、心配そうに八雲さんを見ていた。

 再び八雲さんを見ると、八雲さんも俺を困惑した表情で見ていて、その表情で言いたいことを悟った俺は、口角を上げて頷いた。

「っ!」

 すると八雲さんは驚いていたけど、まだ困惑しながらも千佳さんを見て言った。

「は、はい。……中筋先輩に、助けてもらいました」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る