第645話 第2ラウンド

「みんなおはよう!」

 莉子が部員に挨拶をすると、部員は発声練習をやめて莉子に挨拶をする。

「「……おはようございます」」

 だが、その声は小さく、とても目上の者に対してするような挨拶ではなかった。

 昨日の一件以来、莉子に不信感を抱く生徒が大半を占めているので、渋々といった感じで挨拶をしている生徒がほとんどだ。

 そんな挨拶が終わると、アルトのパート、その二段目にいる部長が莉子に言った。

「先に始めさせてもらっています。坂井先生はご指導されるメンタルではないと判断しましたので。いいですよね?」

 二段目……台の上にいる部長は、文字通り上から目線だ。口調も、表情も、とても教師を敬うものではない。

 莉子は、一度息を吐いてから部長を見る。

「ええ、構わないわ。生徒が自主性を見せてくれてるから私としても喜ばしいことよ」

 部長の嫌味ともとれる言葉を、莉子は笑顔でそう返し、それから真面目な表情をして「でも……」と続けた。

「話があるから、悪いけど一度練習を止めてくれないかしら?」

 そう言った後、莉子は男子の方を見る。

 そこには二箇所、人一人が入れるスペースがあった。真人と一哉がいた場所だ。

「また中筋君の件についてですか? 昨日で話はついたはずです。これ以上何を議論する余地があると言うのですか? そんなことのために時間を割いて、練習時間を削ってしまったら、高崎高校になんて勝てないので、悪いのですが先生の言うことは聞けません。みんな、発声練習の続きを───」

「今回はっ!!」

 莉子は声を大にして叫んだ。

 部員たちはしんと静まり返り、莉子を見る。

 それから五秒ほどすると、「坂井先生が叫んだ?」、「珍しい……」、「あんな先生、はじめてじゃないか?」など、普段と違う莉子の様子にザワザワとしはじめる部員たち。

 それを気にした様子もなく、莉子は続ける。

「今回話があるのは私じゃないわ」

 この言葉にさらに混乱を深める部員たち。

 莉子が扉に向かって「入ってきて」と言うと、廊下で待機していた人物───麻里奈が姿を現した。

「「!!?」」

 麻里奈の姿を見た部員たちの動揺は最高潮に達した。

「え、マジ!?」、「高崎の、先生だよな?」、「中筋と関係を持った?」、「なんでそんな人がここに?」、「やっぱり中筋君と……」、「やっぱり、めっちゃ美人だよな」、「中筋のやつ、あんな可愛い彼女がいながら、こんな美人な先生とも……!?」、「中筋はクソだけど、羨ましい……」、「ヤバい、惚れる」などなど、口々に思ったことを呟いている部員たち。

 だが部員たちを気にすることもなく、麻里奈は莉子の隣に立つ。

 そして部員たちは気づかなかった。『中筋はクソ』を聞いた麻里奈の眉がピクリと動いたことに……。

「みんなも知っての通り、今日は高崎高校の松木先生が昨日の件について改めて話があるということで、ここに来てもらったわ」

 麻里奈が自己紹介をしようとした直前、部長が割って入った。

「浮気をしたご本人が登場ということは、やはり土曜日の一件は真実で、中筋君とそういう……人には言えない関係だったと認めるという解釈でよろしいですか?」

「ちょ、あなた! 頭ごなしに……」

「こっちは高崎高校に勝つために必死で練習をしているんです! いつまでもくだらないことで時間を費やされるもの、その人がここにいるのも不愉快なんです! 早く認めて、早く出て行ってもらえませんか!? それとも、今から教育委員会に今回の件をお話されるのですか?」

「……」

 最後のコンクールで高崎高校に勝つという大きな目標を掲げている部長にとって、この練習の妨げは到底許容できる範疇を超えていた。

 高崎高校に勝つことはおろか、今年も全国に行けるかもわからない時に、高崎高校合唱部顧問が昨日の、終わったはずの議論に出張でばってきたことも……そして、教育委員会に真実を打ち明けるというのも、ここに来る前に莉子が話した理由で、部長にしたら要らぬことだった。

 しんと静まり返った音楽室……誰も何も言わぬ状態が五秒ほど続いたと思ったら、麻里奈が「ふっ」と、不敵な笑みを見せた。

「認めるわけないじゃない。そもそも私には愛する旦那様がいて、その人一筋なのに、どうしてその人以上に愛する人がいるって思うのかしら?」

「なっ……!」

 麻里奈のまさかすぎる返答に、部長は言葉を詰まらせ、他の部員もまたザワザワとしはじめる。

 五秒後、我に返った部長は、スカートのポケットからスマホを取り出して操作し、ある動画を麻里奈に見せながら言った。

「ならこれはなんなんですか!? これが浮気……不倫じゃなかったら、一体なんだと言うんですか!」

 部長が麻里奈に見せた動画……それは一日ついたちに駅で撮影した、真人と麻里奈のやり取り……真人と麻里奈が親しそうに話し、真人が頭を撫でられ、麻里奈の車に乗って移動する、この義姉弟のわりといつも通りの仲睦まじいやり取りだった。

「あら、部活を頑張った義弟を労うのも甘やかすのもダメだったのかしら?」

「お、おとう……と?」

 さらにザワザワする音楽室。

 そんなことは気にせず、麻里奈は続けて口にする。

「ええ。さっき莉子にも言われたけど、私はブラコンでね。……まぁ、本当の弟ではないけれどね」

「ほ、本当の弟ではないって……」

「私には少し歳の離れた妹がいるの。その妹が、中筋真人君の婚約者の西蓮寺綾奈よ」

「「え……ええ!!?」」

 合唱部員全員が驚いて叫び、その振動によって窓ガラスが少し震えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る