第644話 大切な義弟を守るために
同時刻、風見高校廊下───
音楽室に向かって歩く二人の女性の姿があった。
一人はこの学校の音楽教諭で合唱部顧問の坂井莉子。少しだけやつれた顔をしている。
そしてもう一人は───
「悪いわね莉子。突然のお願いを聞いてもらって……ありがとう」
「ううん、正直私もどうしたらいいか本当に困っていたから……ありがとう麻里奈」
高崎高校の音楽教諭で同学校の合唱部顧問、そして綾奈の姉である松木麻里奈だ。
麻里奈が真人の家で電話をかけた相手は莉子で、その内容は『真人の強制退部の件で部員のみんなと話がしたいから、風見高校に入る許可を取ってほしい』というものだった。なお、廊下に出て小声で話をしていたので、真人たちの耳には昨日の電話の内容は入っていない。
莉子は麻里奈の頼みを聞いて最初は驚いていたが、すぐにそれを了承し動いた。
莉子自身、先程言っていたように、部員の……特に部長の説得に突破口が見えずにいたから……。
「その様子だと、部員のみんなは誰も真人の話を信じてないのね?」
「……うん。私が何を言っても考えを変えてくれなかった。昨日は、練習どころじゃなかったわ」
実際、真人と一哉から退部の話を聞いた莉子は寝耳に水の状態で、動揺がおさまらないまま部員とその件について話をしたが、『中筋君が浮気をしていたから』、『いくら歌が上手くても浮気をする不潔な人がこの部にいるのは耐えられない』、『向こうの先生に言わないのは最大限の譲歩だ』などなどの意見を言い、莉子の言葉に耳を傾けるものはいなかった。
逆に、いつまでも真人の味方をする莉子に、部員は不信感を抱き、昨日の部活は部長主導で行われていた。
莉子はそれを麻里奈に告げると、麻里奈は腕を組んである疑問を口にする。
「でも、なんで私に言わないのかしら? 仮に浮気をしていたのなら、私の方がより重い責任を問われる立場なのに……」
「部長の言い分だと、『あの先生の手腕で、全国常連の高崎高校はさらに強くなったから、いくら気持ち悪くても、あの先生がいない高崎に勝ってもあまり嬉しくないから』って言っていたわね」
「ずいぶんと評価してくれているみたいだけど、大した自信ね。今の状態なら、その可能性は限りなくゼロに近いのに。莉子も、その部長も気づいてるはずよね」
莉子は少しだけ間を置いて頷く。
「それにしても、『気持ち悪い』、ね。ずいぶんな言われようだけど、もしかして真人にも私が気持ち悪いって言ったのかしら? 昨日真人の家に行った時には聞かなかったけど」
「言ったって聞いたわ。それであの優しい中筋君がものすごい形相になったとも……」
真人は言えなかった。いや、口に出したくなかったと言った方が正しい。
自分を妹の婚約者と認め、本物の家族と同じように接してくれて、義弟として愛してくれている麻里奈には、たとえ人が言った言葉だったとしても、大切な義姉にそのような言葉を言ってしまう行為自体が、真人には出来なかった。
そして麻里奈は、そんな真人の心情をすぐに理解した。
「真人のことだから、きっと色んな意味で口に出したくなかったんでしょうね。その場でキレずに耐えたことも含めて、あとでうんと甘やかしてあげないといけないわね!」
「麻里奈……あなた本当に中筋君が好きよね。あの麻里奈がこんなにブラコンになるなんて……」
麻里奈の真人に対してのブラコンっぷりに、莉子は少し呆れていた。
「当たり前じゃない。真人は大切な家族で、義弟なんだから。それに真人って可愛いじゃない」
「可愛い……のかしら? それはあなたの感想でしょ?」
「綾奈も常日頃から言っているし、母さんもそう思ってるわよ」
「あなたを含めた家族の女性陣の総意なのはわかったわ……。中筋君が西蓮寺の皆さんにすごく愛されてることもね」
莉子は若干の苦笑いを見せ、そうこうしてるうちに、二人は音楽室の前に辿り着いた。
中からは部員たちの発声練習をする声が聞こえる。どうやら部長が主体となって莉子を待たずに始めているようだった。
そして麻里奈は、音楽室の扉をキッと睨む。
「大切な義弟の泣いている顔は見たくない……真人には綾奈と一緒に笑っていてほしいから……だから話をつけるわ!」
「頼っちゃうけど、お願いね」
「ええ、任せなさい」
麻里奈と莉子は互いを見て一度頷きあい、そして莉子だけが足を踏み出し、音楽室の扉を開けた。
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