第640話 謝罪と憤慨

 綾奈が突然やって来て、俺の頭を強く、それでいて優しく胸に抱きしめている綾奈。

 俺の頭は綾奈の二つの果実の感触があるのだが、綾奈はそれを気にした様子はない。

 まだ息を切らしていて、心臓の鼓動も早い。

 こんなに慌てて駆けつけてくれる理由なんて……今は一つしかないよな。

「綾奈、もしかして……」

「莉子さんがお姉ちゃんに送った、真人が合唱部を辞めさせられたってメッセージを見て慌てて飛んできたの! そのあとに、私のスマホにも一哉君からメッセージが来てたのを見て……」

 そうか……坂井先生、すぐに麻里姉ぇにメッセージを送ったのか。

 それに一哉も……。

 合唱部は練習出来たのかな? 坂井先生はあの場を上手く取りまとめることが出来たのかな?

 無理だったから麻里姉ぇにSOSを出すために送ったのか、それともただの報告で送ったのかはわからないけど、やっぱりすぐにバレてしまったか……。

 綾奈が抱きしめる力を少しだけ強めた。

「真人……ごめんね!」

「……なんで綾奈が謝るんだよ? 綾奈は何も悪くないよ」

「真人は私とお姉ちゃんの秘密を守ってこうなったのに……それに、真人が辛い時に一緒にいてあげられなくて、来るのが遅くなって……ごめんね!」

「あやな……」

 綾奈は必死に俺に謝ってくるけど、やっぱり俺は綾奈が悪いだなんてとても思えない。

「そうね。綾奈は何も悪くないわ」

「え……?」

 部屋の扉の方から大人の女の人の声が聞こえてきて、そっちを見ると麻里姉ぇと千佳さんが立っていた。

「麻里姉ぇ……千佳さん……」

「真人、あんた……」

 千佳さんが俺を見て何かを言いかけたけど……なんだ?

「真人、本当にごめんなさい」

 今度は麻里姉ぇが謝ってきた。深々と頭を下げて、麻里姉ぇの長く美しい髪がカーテンのように両肩から下がっている。

「やめてよ麻里姉ぇ。麻里姉ぇも悪くないから」

「でも私が、真人を労うために頭を撫でてさえいなければ、私が声をかけなければ───」

「麻里姉ぇが声をかけなくても、俺からかけてたよ。大切な義姉ねえさんに声をかけないわけないじゃない」

 そんな浅く、薄い関係じゃないのだから。俺も嬉しくなって声をかけていたよ。

「真人……」

「あはは……それにしても、まさか撮られてるとは思わなかったよ」

 部長がまさか同じ電車に乗って、あとをつけていたなんてね。俺を疑う素振りも、全く気づけなかった。

「そ、そうじゃん! 悪いのは真人でも麻里奈さんでもない! 風見の合唱部の部長じゃんか!」

 千佳さんが今回の事を大きくした部長に憤慨している。

 俺も……そうだな。『部長があの時いなかったら』って、思ってしまっている。

「あそこまで話を聞かない人だとは思ってなかった。一哉のやつが『堅物』って言ってて、その通りだなって、思っちゃったよ」

「「「……」」」

 ……ダメだな。これ以上心配かけてしまうのは。

 綾奈と麻里姉ぇをもっと苦しめる結果になってしまう。

 しっかりしないと……!

「でもさ、もういいんだ」

「「え?」」

「元々臨時で、大して合唱部の力になれていなかったから、俺が抜けたところで何も変わらないよ。それに、帰宅部になったから、これからは放課後、綾奈のために時間を使える。綾奈に会える時間が増えたんだから……だからこれでいいんだよ」

 バイトもしていない帰宅部の俺になったんだ。放課後はマジで綾奈と会い放題で、綾奈が部活ない日はいつだってデートが出来る。

 それに、俺がこれ以上合唱部に関わるようなことをしなければ、部長の牙が麻里姉ぇにむくことはない。

 いいことずくめ、万々歳じゃないか! だからこれでいいんだ。

「「「……」」」

 ……あれ? みんなの空気がまだ重いままだ。

 それに綾奈も、俺の頭を抱きしめる力を緩め……いや、また強くなった!

「あ、綾奈? みんな?」

「……そ」

「え?」

「……うそだよ」

 綾奈は俺の耳元で、小さく……だけど確かにそう言った。

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