第638話 失意の中

「真人、待てよ!」

 俺が音楽室を出て、廊下を歩いていると、後ろから一哉が来た。

「お前、練習は?」

「いやいや、あんな胸糞悪い場所になんていたくなかったから、俺も辞めると言って出てきた」

 え、マジかよ。一哉まで辞めるとは……。

 結果的にこいつに迷惑をかける形になってしまった。

「……悪い」

「謝るなよ。悪いのはお前の話を聞かないあの堅物な部長なんだからよ」

 堅物か……言えてるな。

 それだけ全国大会出場が部長にとって意味があるんだろうな。

 俺も……。

「それにしても、お前よく堪えたな。松木先生をバカにされて、絶対にキレると思ってたのに」

「実際にキレる寸前だったよ。でも綾奈と麻里姉ぇの秘密をバラしそうだったから……堪えた」

 気づけば口の中が鉄の味がする。下唇を強く噛みすぎて少しだけど血が出たみたいだ。

「それは素直にスゲーって思うけどさ、でもお前も全国を───」

「それも言わないでくれ」

「……悪い」

 俺たちの間に気まづい沈黙が流れる。

 十秒ほど経過し、その沈黙を破ったのは一哉だ。

「まあなんだ! せっかく暇になったんだから、今から健太郎も誘ってカラオケでも行くか!」

「いやぁ、今のメンタルでカラオケは……」

 とても歌えるような精神状態じゃない。

「言ってみただけだ。でもパーッと遊んで、忘れようぜ!」

「……そうだな」

 このまま家に帰っても、きっとさっきのことをずっと考えてしまう。それなら一哉の言ったように、遊んですっきりした方がいい。

 ……たとえ、気休め程度でも。

「あれ? 中筋君、山根君、どうしたの?」

 前方から坂井先生が見えて、俺たちに気づいた先生が駆け寄ってきた。

「もう部活が始まるから、早く音楽室に戻りなさい」

「坂井先生、実は───」

 俺はさっき、音楽室で起こったことを説明した。

 俺が麻里姉ぇと一緒にいるところを部長に見られて、それで浮気をしていると勘違いされたこと。俺や一哉が何を言っても、みんなは聞く耳を持ってくれなかったこと。部長に合唱部を辞めるように言われ、言う通りにしたこと……。

 坂井先生は俺が話しているあいだ、ずっと聞き役に徹してくれていた。その間に驚きや怒りの感情を見せてくれた。

 そして今も、部長が下した決断に納得がいっていないみたいだ。

「な、何よそれ! なんでそんなことになるの!? 中筋君、今からでももう一度みんなに説明を───」

「それだと綾奈と麻里姉ぇの秘密を言わないといけない。あの二人が秘密にしている以上、俺が勝手に言うわけにはいきませんから……だからいいんです」

「いいって、中筋君……あなたその顔───」

 顔? それよりも……。

「先生……あてにしてくれていたのに、期待に添えずに……そして勝手に辞めてごめんなさい。全国に行けるのを影ながら願ってます」

 俺はそれだけ言うと、坂井先生にお辞儀をして下駄箱に向けて歩き出した。

「中筋君……!」

「先生、俺もすみません。でもやっぱり真人がいないとつまらないし、それにここに綾奈さんがいない以上、誰かが真人を支えてやらないといけない……それは、親友である俺の役目だと思ってます」

「山根君……」

「今の合唱部をまとめて練習をするのは大変かもですが、頑張ってください」

 一哉もそれだけ言うと、坂井先生にお辞儀をして俺を追いかけてきてくれた。

「なあ、一哉」

「なんだ?」

「……悪い。やっぱり俺、帰るわ」

「そっか」

 一哉はそれ以上何も聞いてこなかった。


「はい、今日はここまで」

「「ありがとうございました!」」

 正午を過ぎた頃、今日の練習が終わった。

 今日もいっぱい歌ったー! ちょっとだけ喉が痛いや。

 真人は大丈夫なのかな? 土曜日はこっちよりも長く練習していたみたいだけど。

 今もまだ部活なのかな? 真人の喉が心配だよぉ。

「綾奈、帰るよ」

「うん。ちぃちゃん」

 ちぃちゃんに呼ばれて、私も帰り支度を始める。

 そうだ! 今日は真人の家に行って、私が喉に優しい飲み物を持っていこうかな。

 それから最近は真人とあまりイチャイチャ出来ていなかったから、旦那様にいっぱい甘えようかな。えへへ♡

「お待たせちぃちゃん」

「うん。じゃあ───」

「待ちなさい綾奈!」

 音楽室を出ようとした直前、後ろからお姉ちゃんの大きな声が聞こえた。

 びっくりしてお姉ちゃんを見ると、お姉ちゃんはこっちを見ずにスマホを見ていてた。目を見開いて、余裕なんて全然なくて焦っているみたいで……お姉ちゃんらしくないと思った。

「どうしたのお姉ちゃん?」

「行かなきゃいけない場所が出来たから、綾奈は今日、私と一緒に車で帰って」

「え? 行かなきゃいけない場所って───」

「私たちの家族の、一大事よ」

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