第623話 綾奈、おかんむり

 雛先輩を見送り、みんなと解散した俺と綾奈は、現在綾奈の部屋にいる。


 そしてお互い向かい合ったまま、正座をしていた。その理由は……。


「むうぅぅぅぅ……」


 この通り、綾奈さんがおかんむりだからだ。

 理由は明白で、雛先輩が俺を抱きしめて、俺はただ雛先輩に黙って(ではないけど)抱きしめられていたからだ。

 この家に帰ってくるまでは、綾奈の機嫌は普通だった。俺といつものように手を繋いでいたし、女性陣と談笑していた。

 綾奈の家に到着し、千佳さんと別れたあと、綾奈が本気で手に力を入れてくるし、「むぅ」と言って不機嫌オーラを放つようになった。筋トレをしていて握力も上がっているので、あれはマジで痛かった。思わず「いたたたたっ!」って言っちゃうほどに。

 怒ってないと勝手に考えていた俺は、軽く考えていたのかもしれない。

 冷静にならなくても、婚約者おれが他の女の人に抱きしめられる場面を間近で見たら、そりゃいい気はしないよな。

 ……鼻の下を伸ばしたのもいけなかった。いや、伸ばしたつもりはまったくなかったけど、綾奈がそう言ったし、雛先輩のウインクにドキッとしたのも事実だし、責められるのはもっともだ。

 雛先輩があのような行動をするとは思わなかったにしろ、やっぱり『婚約者のいる身で……』のところは、いくら俺に他意はないとわかっているにしても、綾奈が聞くと面白いものじゃなのは当然なので、綾奈の怒り……これももっともだ。

 全身から変な汗が出てくる。

 このまま何も言わなければ、ますます空気が重くなる一方だ。ここは、誠心誠意謝らないと!

 そう思った俺は、手と頭を床につけた。所謂土下座だ。

「綾奈! 本当にごめん!」

 正直これで許してくれるなんて思ってない。

 だけど、今の俺には、謝る以外の選択肢はない。

「……むぅ」

 うぅ……やっぱりそうだよな。

「綾奈に嫌なものを見せてしまったのはわかってる! 雛先輩が俺にハグをした時、綾奈のことを想うならすぐさま雛先輩から距離をとるべきだったのに……謝って許してくれるなんて思ってないけど、俺には謝ることしか出来ない。……だから綾奈、本当にごめんなさい!」

「……」

 綾奈さん、無言です。「むぅ」とも言ってくれない。

 この状況の無言が一番こたえる……。十中八九怒っているとは思うのだけど、それでも「むぅ」とか、何か言ってくれた方がまだ気持ち的には楽だった。

 無言はさらに空気が重くなるし、綾奈の機嫌を窺い知ることが出来ない。

 加えて俺は今も土下座を継続中だから、綾奈の表情を見ることも出来ない。

 首を動かして綾奈の顔を見ることは出来るけど……今綾奈の顔を見るのは怖い。

 宇宙一大好きなお嫁さんの顔を見るのが怖いと思う日が来るなんて想像もしなかった。

 こうなったら、さらに言葉を重ねるか? でも、これ以上何か言うと、言葉に重みなんてなくなっちゃいそうだし、言い訳がましくなってしまうかもしれない。

 ここは何も言わず、土下座に徹するのみか……?

 そう思った矢先、この部屋の扉がノックされた。

「二人とも、飲み物を持ってき…………あら?」

 入ってきたのは明奈さんみたいだ。今回もココアを持ってきてくれたみたいだけど、この予想外の状況を見て困惑しているっぽい。

「え、どうして真人君が土下座をしてるの?」

「明奈さん、これは───」

「お母さん。あとで話すから。悪いけど今は……」

 この部屋に入ってはじめて「むぅ」以外の言葉を聞いたけど、声のトーンがいつもより低い。やっぱりまだ怒ってるんだ……。

「そう? ココア、ここに置いておくわね? 何があったのか知らないけど、ほどほどで真人君を許してあげるのよ」

「わかってる。ありがとうお母さん」

「ありがとうございます明奈さん」

 綾奈に続き、俺も明奈さんにお礼を言った。もちろんココアを持ってきてくれたことに対してだ。明奈さんの優しさに甘えているわけではない!

 扉が閉まる音が聞こえ、再び綾奈と二人きりになる。

 そして沈黙が十秒ほど続いたあと、綾奈が一度、大きく息を吐いてから口を開いた。

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