第622話 真人は恩人
「ダメね私……涙は、見せないって、思ってたのに……ううっ!」
「雛先輩……」
雛先輩は俺の手を離し、涙をぬぐっているが、あとからあとから涙が溢れてきて止まらない。
「あやな、ちゃん……ごめんなさい……!」
「え?」
「雛さん?」
雛先輩はなぜか綾奈に謝ると、一歩俺に近づき、そして自分の額を俺の胸に当て、両腕を俺の背中へとまわした。
「ひ、雛先輩……!? あの───」
「雛さん!? ……むぅ」
「お礼を、言うのは私の方よ真人君っ!」
「え、えっと……」
俺、雛先輩にお礼を言われることしたかな?
「あなたは、健ちゃんの、心を救ってくれた!」
「いやあれは、ただの好奇心で───」
「だとしても、塞ぎ込んでいた健ちゃんを、元の明るい、性格に戻してくれた……! 感謝しても、しきれないわ!」
「あ……」
「姉さん……」
「それに、真人君が私を送ってくれたあの夜、本当は、一人で帰るのがちょっとだけ不安だった。でも、真人君の家とは逆方向になるから、頼めなくて……それでもあなたは、嫌な顔一つしないで、進んで私を、家まで送り届けてくれた!」
「それも、男として、そして勉強を見てくれたお礼として当然の行為で───」
「その優しさに、私は、あなたに惹かれて、今も……まだ、こんなにも……」
「っ!」
やっぱり、最後のアレは言わない方が良かったか……。
雛先輩の、俺への気持ちをまた強くしてしまった結果になってしまった。
綾奈を見ると、頬は膨らませてないけど不満が表情から出ている。雛先輩を止めないのは、これが出発前の最後の時間だからだ。
雛先輩が泣く前に言ったセリフで、先輩の気持ちを再燃させてしまったけど、一度出たセリフは取り消せない……いや、取り消さない。
やがて雛先輩の嗚咽が止まり、ゆっくりと俺から離れた。
「ふふ、ダメね私……最後に真人君を困らせてしまって」
「いえ、俺の方こそ……。でも、さっき言ったことは本心です。雛先輩に辛い思いをさせてしまうかもしれない。でも……!」
そこで言葉を区切り、今度は俺が雛先輩へ握手を求め、そして笑顔で言った。
「こっちに戻ってきたら、絶対にまたみんなで集まって、いっぱい遊びましょう! その時には、雛先輩の向こうでの生活がどんなのか聞かせてください」
「……っ!」
雛先輩は目を見開いて驚き、それから少しして目を細めて微笑み、ゆっくりと俺の手を取った。
「ええ。帰ってきたら絶対に声をかけるから、そうしたらまたみんなで集まりましょう」
「はい!」
正直、これで良かったのかはわからない。でも、この雛先輩の笑顔が、作り物じゃなくて本心からだと、俺は信じたい。
俺たちは手を離し、雛先輩は人差し指をピンと伸ばし、それを俺の鼻の先にギリギリ触れないところで止めた。
「あと、真人君は一つだけ勘違いをしているわ」
「え?」
勘違い? それって一体───
「あなたを好きになってから、辛いと感じたことはないわよ。だから勝手に私を可哀想な女にしないでね」
「え?」
「私は今でも、あなたを好きになって良かったって、胸を張って言えるわ」
「っ!」
そう言って、雛先輩はパチッとウインクをして、その美しさに思わず息をのんでしまった。
「むぅ……真人、鼻の下伸びてる」
「の、伸ばしてない! ごめんって綾奈!」
ドキッとはしたけど鼻の下は伸ばしてない……と思う。
綾奈は頬を膨らませたまま、俺の腕に抱きついてきた。
「……もう他の女の人に抱きつかれたらダメだよ」
「わ、わかってる。本当にごめん綾奈」
「うん」
「私も……本当にごめんなさい綾奈ちゃん」
「い、いえ……」
なんとか綾奈の機嫌を直すと同時に、雛先輩が乗る電車がまもなく到着するというアナウンスが流れた。
「……もう時間ね。それじゃあみんな、行ってくるわね~」
雛先輩は荷物を持ち、改札へ向かうために歩き出した。
俺たちは各々声をかけ、手を振りながら改札をくぐる雛先輩を見る。
乗車の列に並んでから少しして、電車が到着し、雛先輩はこっちを見て俺たちに手を振ってくれたので、俺たち全員も手を振り返した。
俺たちがいる場所でも見える位置に座った雛先輩と見つめ合い、やがて発車のベルが鳴るとまた手を振り合い、電車が微速前進し、雛先輩が見えなくなるまで誰も手を振るのをやめなかった。
雛先輩……本当にありがとうございました。
また、絶対に会いましょうね!
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