第592話 マドレーヌ実食
綾奈は頬を染め、上目遣いで俺を見ている。綾奈がちょっと言いづらい、恥ずかしいお願いをする時に見せる表情だ。
俺も、もしかしたらお願いされるのでは? って思わないでもなかったから、驚きはそこまでじゃない。
俺がドキドキしている理由は、言うまでもなく綾奈の表情だ。
毎回(ではないけど)こんな表情でお願いされて、断れる男なんていないって! 俺以外の男に見せるつもりはないけどな!
……あれ? そういえば。
俺は今頃になって、大事なものがないのに気がついた。
フォークがない!
さすがにマドレーヌを直接手で持つのはないよな。
綾奈にマドレーヌを渡すことしか考えてなかった。
「ごめん綾奈。ちょっとフォーク取ってくるから待ってて」
「あ……うん。わかったよ」
俺は急いで一階におりて、フォークを持って部屋へと戻った。
「お、おまたせ……」
かなり急いでいたのでちょっと息が上がっていた。
「おかえりなさい。もっとゆっくりでよかったのに」
「いざ綾奈が食べるってなると、早く食べてもらいたくて……」
それに遅くなりすぎると弘樹さんと明奈さんも心配するかもしれないからな。綾奈にはゆっくりと味わってもらいたいから、俺のミスに時間を使っていられない。
リビングに入ってチラッと時計を見たら、八時前だった。
明日も学校があるし、その前に早朝ランニングもあるから、綾奈の滞在時間は長くてもあと三十分ってところだ。
俺は息を整えながらゆっくりと綾奈の正面に座り、持ってきたフォークをマドレーヌに刺した。
「はい、綾奈。あ~ん」
そしてマドレーヌを綾奈の目の前まで持っていった。
「あ~ん……!」
綾奈はその小さい口を開け、マドレーヌを一口食べた。
目を瞑り、四本の指で口を隠しながらゆっくりと咀嚼している綾奈をドキドキしながら見る。
綾奈可愛い……味はどうかな?
二種類の全く異なるドキドキが俺の中にある。
綾奈は時間をかけて咀嚼し飲み込むと、ゆっくりと手を下げて目を開けた。
「ど、どうかな……?」
俺がおそるおそる聞くと、綾奈はにこっと微笑んでくれた。
「とってもおいしいよ!」
「よ、よかったーー!」
俺は数時間前に泣きながら同じセリフを言ったなと思いながら、安心して肩の力が抜けた。
「真人、お菓子作りがどんどん
「そ、そうかな?」
前回のガトーショコラも今回のマドレーヌも、作り方を教わりながらだったから余裕なんてなかったけど、ガトーショコラの経験が生かされたのかな?
「うん! こんなに旦那様の作ってくれたお菓子を食べられるなんて、しあわせ~♡」
そう言って綾奈はマドレーヌをもう一口食べ、とろけるような笑顔を見せてくれた。
綾奈がマドレーヌを一つ食べきったタイミングで、下から母さんの声が聞こえた。
「真人ー、綾奈ちゃーん!」
母さんの声に気づいた俺たちは廊下に出た。
「なに母さん!?」
「もう遅い時間だから綾奈ちゃんそろそろ帰らないと明奈さんたちが心配するわよ!」
もうちょっとって思っていたけど……そうだよな、綾奈は女の子なんだ。
いくら俺が送っていくとはいえ、夜道は危険があるかもしれないから、早く帰さないとご両親も心配してるよな。
少しでも綾奈と一緒にいたいって気持ちも、今は押し殺さないといけない。
「わかった! すぐ降りるから!」
綾奈も寂しそうな表情をしていたから、頭を撫でていたら、下から母さんの声がまた聞こえてきた。
「そうだわ! 今回はお父さんが綾奈ちゃんを送っていくそうよ!」
「「え?」」
俺が綾奈の家まで送っていく気満々だったし、綾奈もそのつもりでいたから、二人して驚いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます