第582話 綾奈は手料理を振る舞いたい
綾奈の着替えも終わり、俺たちは綾奈の家を出て手を繋いで歩き出す。
「ところで綾奈。これからどこか行きたいところってある?」
実はここに向かっている途中、どこに行きたいかの話題は出なかった。四月の春休み中、俺と一緒に部活に行けることで嬉しさが天元突破した綾奈はずっと上機嫌で、俺はそんな可愛いお嫁さんに見惚れていて、どこに行くか決めずにずっと綾奈を見ていた。
おかげで今決めることになったわけだけど、綾奈はちょっと考える素振りを見せたかと思ったら、俺の顔をじっと見つめてくる。ちょっと言いにくそうな表情をしていても可愛いけど、え? どこに行きたいんだ?
「あのね真人」
「うん」
「今から、真人の家に行ったらダメかな?」
「俺ん家?」
「うん」
まさかの提案に俺もちょっと驚く。
俺が家に帰ったとして、少ししたらドゥー・ボヌールに行くから、俺の滞在時間は数十分くらいだ。
もしかして、綾奈はイチャイチャしたくて言い出したのかな?
いや、それなら綾奈の部屋でもイチャイチャは出来るから違う気がする。どちらの家にも母親がいるからそう大差ないし。
「俺は別に構わないけど……もう俺ん家でいいの?」
「うん。真人や皆さんのお夕食……良子さんと一緒に作ろうかなって」
「マジで!?」
綾奈はこくりと頷いた。
綾奈の料理を食べれる!? それは願ってもないけど……。
「でも綾奈はお客さんだし、俺から誘った手前、作らすのも───」
「私はもう中筋家の家族だって、冬休みに良子さんが言ってくれたし、招かれてご飯食べるだけはイヤというか、真人に私の手料理を食べてほしいから……」
「っ!」
うわぁー! なんだその理由! めちゃくちゃ嬉しすぎるんだが!?
今日は綾奈の手料理を食べれるとは微塵も思ってなかったし、そもそも最後に綾奈の手料理を食べたのって、確か……俺の誕生日じゃなかったか? 約二ヶ月ぶりか。
久しぶりに綾奈の手料理が食べられるかもしれないと思うと、俺は自然と笑顔になっていた。
「一緒にドゥー・ボヌールに行くって言ってたのに、突然予定を変えちゃってごめんね」
「謝ることじゃないって。綾奈の料理を食べられるの、すごく楽しみだよ」
俺は綾奈の手を離し、綾奈の頭に優しく自分の手を置いた。
綾奈と一緒にいられない時間が出来てしまうのは、正直ほんのちょっとだけ残念ではあるけど、綾奈の手料理を食べれるのを考えたらちょっとの寂しさを我慢すればいいだけだし。
「えへへ、うん!」
綾奈は満面の笑みを見せてくれた。この話をはじめて、今までちょっと表情が曇っていたから、いつもより笑顔が眩しく見える。
自分で言い出したことを勝手に変えちゃったことに対して少し申し訳なく思ってたんだな。
「そうだ。なにかリクエストはある?」
「リクエスト?」
「うん。良子さんがもう献立を決めていたら作れないかもだけど、真人の食べたいものを作りたいから」
マジか! 作ってくれるだけじゃなくリクエストも聞いてくれるとか最高かよ! 最高だったわ。
「なら卵焼きで!」
これ一択しかなかった。
「卵焼き?」
「うん。俺が綾奈に胃袋を掴まれた料理だから、久しぶりに食べたいなーって」
俺たちが付き合う前、合唱部の合同練習のお昼休憩で食べたあの卵焼きの味が今でも忘れられないんだよな。それくらい、あの卵焼きは俺の好みの味だった。
「わかった。じゃあ良子さんに聞いて、いいって言われたら作るね!」
「よろしくね! うわぁ~楽しみだ」
俺のリアクションが綾奈にはオーバーに見えたのか、ちょっと照れながらもくすくすと笑っていた。
俺の思い出の味……思い出というほど時が経ってないのかもしれないけど、とにかくその味を結婚する前にまた体験出来る幸せに、俺はしばらくテンションが上がっていた。
綾奈と一緒に家に戻ったら、母さんと美奈は驚いていた。
そりゃそうか。綾奈を迎えに行って、麻里姉ぇにバレンタインのお返しを渡すはずなのに、こんなに早く帰ってきたんだから。
ここに来る途中に綾奈が言った、夕飯を自分も作りたい件を綾奈が母さんに伝えると、母さんは少し驚いていたけど笑顔で了承してくれた。
美奈も綾奈の手料理が食べられることを知って両手を上げて喜んでいた。俺以上の喜びじゃないか?
綾奈が夕食を作るため、指輪をペンダントに通し、手首にしていた俺が綾奈の誕生日にプレゼントしたピンクのシュシュで髪を束ねているのを見届けたタイミングで、俺は廊下に出て綾奈を手招きした。
「綾奈綾奈」
「?」
首を傾げるお嫁さんを見ながら、俺は階段前に移動し、あるポーズをとる。
「どうしたのまさ……っ!」
短いポニーテール姿の綾奈が俺を見て顔を赤くしていた。
俺は両手を広げて、綾奈をすぐにでも抱きしめる体勢でいたから、綾奈には予想外だったみたいだ。そもそもやるのはじめてだし。
俺が口パクで「おいで」と言うと、綾奈は小走りで近づいてきて、俺の胸に飛び込み両腕を背中に回した。俺も綾奈の背中に腕を回す。
「早く帰ってくるからね」
「うん。待ってるね」
そうして短く熱い口付けを交わし、綾奈に見送られながら俺は再度家を出た。
まぁ、言ってしまえば家と駅(周辺)を二往復することになったんだけど、まったく苦にならない。これも一種の運動と考えればいいし、それ以前にお嫁さんの手料理を食べられる嬉しさで、『苦』なんて文字は頭に浮かびすらしなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます